「いくつだと思う? 44(歳)だよ。みんなよくやったよ」――小野伸二、高原直泰、南雄太、本山雅志……。同い年の選手たちが現役引退を発表した2023年。「寂しくはないか?」という問いを吹き飛ばすように、中田浩二は答えた。取材後の2024年1月には、同学年の遠藤保仁も引退を表明した。 

 小野を中心に1999年のワールドユース(現U-20 ワールドカップ)で準優勝を果たし、「黄金世代」と呼ばれた彼らは、2002年の日韓ワールドカップで決勝トーナメント進出という史上初の快挙を成し遂げることになる。個性豊かな才能が揃い、欧州移籍のロールモデルにもなった黄金世代は、なぜ生まれたのか? 当事者のひとりである中田の言葉で振り返る。(全3回の1回目/#2、#3へ)

◆◆◆

「トイレまでついていけ!」小野伸二をマンマーク

――中田さんが小野伸二さんの存在を知ったのはいつでしたか?

「名前を知ったのは中学時代でしたね。サッカー専門誌に飛び級でU-16日本代表に選出された13歳として紹介されていたんです。当時の僕は鳥取の強豪でもない中学校でサッカーをやっていたから、『へぇ、そういう選手がいるのか』という程度で、遠い世界の話のような感覚でしたけど」

――その後、中田さんは強豪校である東京の帝京高校へ進学します。小野さんは静岡の清水商業へ。実際にプレーを見る機会もあったんじゃないですか?

「そうですね。でも、1年のころは僕がレギュラーじゃなかったし、伸二もあまりチームにいなかった記憶がある。対戦したのは、2年のインターハイの決勝戦でした」

――1996年大会ですね。清水商業が3対1で勝利しました。

「僕は中盤で、伸二をマンツーマンでマークしろという指示を受けていたんです」

――当時、小野伸二対策として「トイレまでついていく気持ちでマークしろ」と指示されたという逸話を聞いたことがあります。

「僕もそれくらいの気持ちで試合に挑みましたよ。準決勝では桐光学園と対戦して、(1学年上の)中村俊輔をマンツーマンでマークしたんです。俊輔も伸二も高校生のなかでは、別格だった。僕自身もまだまだ未熟だったし、ただついていくだけで精一杯でした。巧い選手だけど、ふたりはタイプも違うし、苦労しましたね」

小野伸二16歳の衝撃「頭の後ろに目があるんじゃ…」

――小野さんを抑えるポイントとは?

「伸二はなんでもできる選手。だから、あらゆることをやられましたね(笑)。自然と伸二のところにボールが集まる。伸二がどんどんパスを供給するので、とにかくボールを持たせないように警戒していたけど、ボールの受け方も巧い。動き回るし、ダイレクトプレーもある。パスを出すときはもちろん、ボールをもらうときも視野が広いんですよ。今は『視野が広い』という言葉で説明できるけれど、当時は『こいつどこに目があるんだ』『どこ見ているんだ』と……。頭の後ろに目があるんじゃないかって。ついていくだけで必死だから、簡単に抑えることはできませんでしたね」

――中学時代から別世界の存在だった小野伸二に完敗したとき、「やっぱりしょうがないな」という思いになるんですか?

「それはなかったですね。別格ではあるけれど、同じ年齢のヤツにここまでやられるのかという悔しさがありました。『お手上げです』という気持ちはなかった。次に小野伸二とやったとき、負けないためにどうすればいいのかという思いが自然と湧いてきた。悔しさと苦さが混じった気持ちだったけれど、そこからもっと成長したい、巧くなりたいという欲が生まれました。負けたくないって」

――その結果として、中田さんは鹿島アントラーズ入りを果たします。U-18日本代表の活動も始まり、ライバルの存在を意識する機会が増えましたね。

「そうですね。同じポジションではヤット(遠藤保仁)、クラブユース出身のイナ(稲本潤一)や酒井友之もいましたから。みんな巧いけれど、負けたくないという気持ちは変わらずありました。それはきっと、ほかの選手も同じだと思います」

――稲本さんや酒井さんはすでにプロデビューも果たしていたし、小野さんや高原さんと同様に高校1年の1995年にU-17世界選手権のメンバーに選出されています。同じU-18やU-19の代表候補としても経験値が違う。気後れするようなことはありませんでしたか?

「なかったですよ。当然試合に出られるのは11人だから、代表チーム内に序列が生まれるのは仕方ないことです。でも、遠慮していられないし、同時に伸二たちが『こっち来いよ』と引っ張り上げる空気を作ってくれたように思います。選手それぞれが個性的で、よく話すヤツもいれば、無口なヤツもいたけれど、誰ひとりこぼれることなく、『みんなでやろうぜ』という空気がチーム内にありました。なにか特別な言葉を発するわけじゃないけど、常にそういう雰囲気でした。同時に、お互いを認めながらも誰もが『負けたくない』という負けず嫌いだったから。ピッチに立てば、本気で競い合った。ピッチを離れれば、和気あいあいとみんなで楽しい時間を過ごしていた。その中心にいたのが小野伸二だった。その空気が僕らの世代の強さだったと思います」

フィリップ・トルシエという劇薬

――そして1998年ワールドカップフランス大会に、小野伸二が出場する。

「羨ましいなと思いましたよ。僕らはちょうどアジアユース選手権(U-19)予選を戦っていたんです。伸二が立っている場所と、自分がいる場所の違い、差の大きさを痛感して、悔しさがあった。同時に今まで無縁だったワールドカップを、身近に感じるようになったのも事実です。鹿島の先輩もワールドカップに出ていたけれど、同じ歳の伸二の存在はまた別でしたね」

――ワールドカップという目標が明確になった。

「とはいえ、自分がいるのはU-19のアジア予選。まずは、今やるべきことをしっかりとやって、上を目指していく。そういう向上心の先にワールドカップという目標が明確になったのが、この時だったと思います」

――1999年になり、ワールドユースを戦う指揮官として、フィリップ・トルシエが就任しました。

「彼が来たことで、より激しい競争が生まれました。勝つためにどうすべきかという意味で厳しい指導があり、引き上げてもらった。もともと僕らは個性派のグループで、そこへフィリップのような強烈な個性の人間が来れば、分裂する可能性もあったけれど、そこでも伸二を中心にチームはまとまって、うまくやれた。少々強引というか、『そんなことやるの?』というような指導であっても、『やるっていうなら、仕方ないから、しっかりやろう』という空気がありましたね。伸二が受け入れて、動いているんだからという感じで、自然とまとまっていたと思います」

ワールドユースの熱い記憶「みんなで『GTO』を」

――ナイジェリアでのワールドユースは長い戦いになりました。チームの結束をはかるミーティングはあったんでしょうか?

「あのグループは、そんなふうに改まって話し合うというのは一切なかったですね。そういう必要性がなかった。夜、宿舎で日本のドラマのビデオを見るとなると、リラックスルームに全員が集まって、『GTO』とか、わいわい言いながら見てましたよ」

――試合に出ている選手、出ていない選手関係なく、盛り上がっていたんでしょうね。

「確かに。でも、当然試合に出ていない選手にストレスはありましたよ。『早く帰りたい』って口々に言っていたけれど、チームのためになにかしたいという気持ちはある。その結果、バリカンで丸刈りにしたんです、みんなが(笑)。試合に出ていない選手の献身的な気持ちに、出ている選手が甘えることもなかった。逆に出ていない選手のことを思ってくれている。言葉じゃなくて、ふるまいや空気で伝わってくる。そういうことが自然とできるグループ。ナイジェリアの経験で、チームとしても、人間としても成長することができたと感じています」

――ワールドユースは準優勝。そして、2000年のシドニー五輪、2002年のワールドカップと大きな大会が続きます。

「監督がフィリップだったこともあって、僕は順調に試合で使ってもらったけど、そこで安心することはなかったですね。候補となる選手が増えたから、激しい競争はずっと続きました。五輪に出られなかった選手は、次はワールドカップへと思うのは自然のこと。みんな切磋琢磨していたと思います」

――自分たち黄金世代こそが中心だ、という意識はありましたか?

「そんなことはないですね。2002年のチームのムードを作ってくれたのは、ゴンさん(中山雅史)やアキさん(秋田豊)の存在が大きかった。同じ歳の選手がいることに心強さはあるけれど、いないとダメというわけじゃない。今思うと、僕らの世代はワールドユースのころから、まとまってはいるけれど、そこに依存はしていない。あくまでもフェアに競争しながら成長していった。その距離感がよかった。絆はあると思うけれど、その関係に甘えたり、寄りかかったりしていなかった。選手それぞれが自立していたんです。昔からそうでしたね。伸二が中心にいるのは間違いないけれど、それぞれがそれぞれの足で立ち、自分の歩むべき道、やるべきことをやれていたように思います」

<#2「2006年W杯の真実」へ続く>

文=寺野典子

photograph by AFLO