2002年の日韓ワールドカップ、規律や戦術を重んじたフィリップ・トルシエのもとで決勝トーナメント進出を果たしたサッカー日本代表。新たな代表監督にはジーコが就任し、大きな期待感のなかで2006年のドイツ大会へと臨んだ。しかし、初戦のオーストラリア戦で逆転負けを喫し、グループリーグで敗退。あのとき、日本代表に何が起きていたのか。代表の中核を担った「黄金世代」の一員である中田浩二が、当時の実状を語った。(全3回の2回目/#1、#3へ)

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黄金世代の海外移籍が刺激に

――日韓ワールドカップはラウンド16のトルコ戦で敗退。中田さん自身にとってどんな大会でしたか。

「試合に出られたから手応えはありました。でも、(トルコ戦で)自分のミスから相手にコーナーキックを与えて、失点して負けたわけだから、その悔しさしか残っていなかった。2006年のドイツ大会まで、ただ必死に目の前のことに取り組めば成長できると思っていたわけでもない。鹿島ではポジションを手に出来ていましたが、さらなる刺激が必要だと考えてもいました」

――2002年を機に、海外に移籍する選手も増えていきました。中田さんも2005年、トルシエが指揮をとるマルセイユ(フランス)に移籍します。

「僕自身、子どものころから海外でプレーしたいとは考えていなかった。でも、日本代表として、海外の選手と対戦するなかで、『自分もあっちでプレーしないと戦えない』と考えるようになった。(小野)伸二、タカ(高原直泰)、イナ(稲本潤一)がヨーロッパでプレーしているのだから、僕も負けられないという気持ちは強かったですね」

――やはり小野さんをはじめとした黄金世代の存在が刺激に?

「思えば、最初は自分と伸二を比べるようなことは一切なかったですね。ただ憧れて、『すごい選手だな』というだけ。でも、対戦したり、一緒にプレーするなかで、彼らに負けていられない、と。どうすれば追いつけるのかを考えたし、自信も芽生えてきた。そういう過程を考えると、彼らの存在が僕を成長させてくれたんだと思います」

あのオーストラリア戦「逆転負けの真相」

――ジーコジャパン時代は「海外組」「国内組」という区別がメディアでクローズアップされることも多かったように思います。

「チーム内で海外組とか、国内組ということを意識することはなかった。実際、メディアや世間では海外組を上に見るような風潮があったかもしれないけれど、チームにはありませんでした。海外でプレーしている選手は、その経験を表現しようとするし、国内でやっている選手は国内でやってきたことを出そうとする。これは当然のことです。それをどうまとめて、ピッチで表現するかを決めるのは監督の仕事。どういう選手を選び、どういうサッカーをするのか。それは監督次第だから」

――日本代表はジーコ監督のもとで2004年のアジアカップを制し、翌年のコンフェデでもブラジルと互角の戦いを演じました。そして2006年のワールドカップ直前、高原さんの2ゴールで開催国ドイツと2対2で引き分けて最高のムードができあがった。「黄金世代」の集大成になるはずの大会でしたが……。

「グループリーグを突破するうえで、初戦のオーストラリア戦は勝ち点3を絶対に獲らないといけない試合でした。『オーストラリアには勝てるだろう』という空気もあったと思います。実際、前半のうちに(中村)俊輔が先制点を決めてくれた。でも追加点がなかなか決められなかった。結果的に、少しずつ苦しい展開になっていきました」

――暑さもあって守備陣が疲弊し、小野さんが投入されましたが、試合終盤の3失点で敗れました。

「僕自身は試合には出られなかったけれど、チームのために貢献したいと考えていた。ワールドカップの難しさを知った大会でしたね。今にして思えば、2002年はそこへ向かう過程も含めて、トントン拍子に行き過ぎたのかもしれません。2002年と同じこと、それ以上のものが求められていたし、僕らもそのためにやってきた。ドイツ戦でのパフォーマンスで自信を得られた部分もあったのに、オーストラリア戦で負けてしまった。そのあと、どう切り替えるのかというところで、うまくいかなかった。僕らは年齢的には中堅だったけれど、やっぱり若かった。日本というチームも、まだワールドカップの経験は3回目でしたし……。敗因を求めるのなら、そういうところだと思います」

ジーコジャパン「選手間の不仲」は真実だったのか?

――大会後はメディアでさまざまな敗因が語られました。選手間の不仲というのもそのひとつです。

「チームの雰囲気が悪かった、分裂していたと言われるけれど、僕ら自身はそんなふうには感じていなかった。でも、結果が結果だったから、なにを言われても仕方ない。単純に自分たちの力がなかったということでしょう」

――ドイツ大会後、イビチャ・オシム監督の就任によってメンバーは大きく入れ替わりました。就任当初はオシム監督が海外組の招集を避けていたこともあり、招集メンバーに中田さんや小野さんの名前はありませんでしたね。

「2006年1月にスイスのFCバーゼルに移籍して、試合に出られるようになり、南アフリカでドイツの悔しさを晴らしたいという気持ちもありました。2007年に1度オシムさんにも呼んでもらったけど、2003年に痛めた前十字靭帯の調子も正直よくなかった。代表監督が岡田(武史)さんに代わり、2008年に鹿島へ復帰してからも、代表のことは考えていたけれど、時代の流れもある。呼ばれないなら呼ばれないで仕方ないな、と。それでも、ドイツ大会で試合に出られなかったヤット(遠藤保仁)が南アフリカで中心選手として活躍し、イナがメンバーにいたこともうれしかったですよ」

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 2010年の南アフリカワールドカップ、岡田武史監督に率いられた日本代表は下馬評を覆してグループリーグ突破を達成する。さらに長友佑都や内田篤人、ワールドカップではメンバー外だった香川真司ら多くの選手がヨーロッパへと移籍。それは同時に、「黄金世代」を中心としたサイクルの終焉を意味していた。

<#3「黄金世代が残したもの」へ続く>

文=寺野典子

photograph by Naoya Sanuki/JMPA