12月19日、読売新聞グループ本社渡辺恒雄代表取締役主筆が亡くなった。大正15年生まれ、満98歳だった。

沖縄にいた巨人OBに話を振ってみると…

 ただ申し訳ないが――野球界の人は「渡辺恒雄氏」などと呼んだことはないはずだ。みんな「ナベツネ」「ナベツネさん」と呼んでいた。渡辺恒雄氏というのは、違和感がある。

 スマホにこのニュースが流れてきたとき、私は沖縄のジャパンウィンターリーグ(JWL)の取材で、コザしんきんスタジアムに来ていた。目の前に、JWLのGMをつとめる大野倫さんがいた。大野さんは沖縄水産時代にエースとして夏の甲子園で準優勝。その後野手に転向し、1996年に九州共立大からドラフト5位で巨人に入団している。

 この時、渡辺氏は読売新聞社社長、最高経営会議メンバーだった。同年12月、正力亨オーナーを名誉オーナーにして、読売ジャイアンツオーナーに就任している。

「渡辺恒雄さんが亡くなりましたね?」

「あ、そのニュース、さっき知りました」

「渡辺恒雄さんとの思い出ってありますか?」

「うーん、僕は一選手だったから、そんなにないですね」

「直接話をしたことはありますか?」

「燦燦会(財界による読売ジャイアンツ後援会)の席上で、他の選手と一緒に激励されたくらいですね。偉大な方だったと思いますけどね」

 とのことだった。雲の上の人だったのだろう。

 一説には1978年の「江川事件」のときに、キャンプに向かう途中だった巨人のエース小林繁を羽田空港から呼び戻した現場に渡辺恒雄氏がいた、とも言われている。

 しかし当時の渡辺氏の役職を考えると、関与したとしても主役級ではなかったのであろう。渡辺氏が読売ジャイアンツと深くかかわったのは、1989年に最高経営会議メンバーになってから。そしてワンマンぶりを発揮し始めたのは、前述のとおり1996年、正力亨オーナーを名誉オーナーにして読売巨人軍オーナーに就任したタイミングである。

20年前、「たかが選手が」で始まったプロ野球変革

 渡辺恒雄氏は、間違いなく、日本のプロ野球が変革するに際して決定的な役割を果たしていた。

 それも「たった一つの言葉」で。

「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」

 2004年、オリックス・ブルーウェーブと近鉄バファローズの「合併話」から火の手が上がった「球界再編」。実は、この年、渡辺氏はこの合併だけでなく、2リーグ12球団の体制を変革すべく大きな構想を描いていた。

 まず一つが、日本ハムファイターズの東京から札幌への移転。北海道は、西武ライオンズの準フライチャイズ化を目指している段階だったゆえに西武が難色を示したが、渡辺氏は西武の堤義明オーナーに「1リーグ構想」を話して納得させたのだという。そのうえで、ロッテ、ダイエーなどが絡んだ「もう一つの合併」の構想も抱いていた。

 しかし、2004年6月にオリックスと近鉄の合併が理事会で了承されると、古田敦也会長率いる労働組合・日本プロ野球選手会は、ストライキも辞さない強硬な姿勢を示した。

じつは「立派な選手もいるけどね」と

 7月、古田会長は選手会を代表して「オーナーと直接、話をする機会を持ちたい」との意向を示した。しかしその話を記者から聞いた渡辺氏は「無礼な! 分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が!」と発言する。

「たかが選手が」

 このたった一つの言葉が報じられたことで、世論は一気に「がんばれ古田、がんばれプロ野球選手会」という方向に傾いた。

 実はこのとき渡辺氏は「たかがといっても、立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話をするなんて協約上根拠は1つもない」と続けたのだが、「たかが選手が」という言葉の「毒」が強すぎたゆえ、現代で言う「切り取られた」発言となったのだ。

 9月に史上初のプロ野球ストライキが実施される。その後、楽天が新規参入したことでセ・パ両リーグ12球団体制は維持された。

 この「球界再編」をきっかけとして、これまでの「巨人の放映権収入」に依存したプロ野球のビジネスモデルは終焉を迎え、「地域密着」「ボールパーク構想」などを基幹とする新しいビジネスモデルが誕生するに至った。なお選手会のストライキのひと月前、巨人が明治大学の一場靖弘に対して「栄養費」名目で金銭を支払っていたことが発覚し、渡辺氏はオーナーを辞任した。

 渡辺氏は「たった一言」で、野球界の体制を変革させるに至ったのは間違いない。ただそれは、本人が思う方向性では全くなかったが……。

「たかが選手」以外にも世間の神経を逆なでした

 筆者が感心するのは――「たかが選手が」発言で、満天下を敵に回したようになったにもかかわらず、渡辺氏は毫もひるんだ様子はなく、発言前後にも世間の神経を逆なでするような言葉を連発していた点である。

 たとえば2003年には、巨人軍・原監督の退団に際して、こう発言する。

「原は監督を辞めても巨人の社員だよ。オレから見れば人事異動だ」

 プロ野球人のステイタスを何と心得る! と批判を浴びた。

 さらに、2011年11月には「清武の乱」が起こり、渡辺氏に反旗を翻した株式会社読売巨人軍の清武英利球団代表の解任を巡って、すさまじい争いを繰り広げるのだ。

 読売系とそれ以外のメディアが正反対の報道をした。まさに「劇場空間」で繰り広げられた対立劇だった。筆者はこのとき清武氏の手記が載った『文藝春秋』を買いに書店に走ったのを覚えている。

 しみじみ思うのは、渡辺氏の見事な「敵役」ぶりである。非難を浴びまくっても、傲然と世間を睥睨(へいげい)する。良くも悪くも、これはただの人ではない、としみじみ思う。そんな渡辺氏は「野球は好きでもないし、そもそも知らなかった」のだという。

「君、バッターは三塁へ走ってはいかんのかね」

 東京ドームで野球を観戦していた時に、隣で解説をした社員に向かって発した質問とされる。

野球協約を誰より読み込み、野球愛がなかったからこそ

 1926年生まれの渡辺恒雄氏は、戦前の中等学校野球、大学野球で大いに盛り上がった東京で少年時代を過ごしたはずだが、多くの同世代とは異なり、野球には全く関心がなかった。

 野球協約を誰よりも読み込み、チームの勝利にこだわった、と巨人・山室寛之元球団代表や東京大学名誉教授の御厨貴氏らがテレビ朝日の『報道ステーション』で語る一方で――競技としての「野球愛」は持ち合わせていなかったのだろう。だから、巨人のオーナーになって野球ファンの非難を浴びてもなんとも思わなかったのではないか。

 穿った見方をすればファン的な「野球愛」がなかったからこそ――政治記者として培った手腕で、ドラスティックな「球界再編構想」を思いつくに至ったとも考えられる。

 日本のプロ野球は、読売新聞中興の祖と言われた正力松太郎によって創設された。2リーグ構想を推進したのも正力。巨人戦のナイター中継を空前の人気コンテンツにしたのも正力。渡辺恒雄氏は正力松太郎に豪腕を認められて出世した。しかし今から20年前の「たかが選手が」発言が契機となり、「球界の盟主」読売ジャイアンツを中心とするビジネスモデルに終焉をもたらした。

 そう考えると、渡辺氏の死は「一つの時代が完全に終わった」ことを意味しているとしみじみ思う。

文=広尾晃

photograph by JIJI PRESS