かつて春高ヒロインとして注目を浴び、強豪・NECレッドロケッツを経てビーチバレーの世界で闘った浦田聖子。NumberWebインタビュー第1回では、NEC入団4年目での退団、そしてビーチバレー転向の真相を聞いた。《全3回/第2回、第3回に続く》

「第77回春の高校バレー」(以下・春高)で栄えある女子優勝を飾ったのは、29回の出場を誇る伝統校・共栄学園高だった。OGである浦田聖子はスタンド席から後輩たちに声援を送り、19年ぶり(2005年以来)の歓喜の瞬間を母親のような気持ちで眺めていた。

「準決勝、決勝を見に行きました。今年はNECで一緒だった大友(旧姓)愛さんの長女・美空さんがエースでキャプテン。彼女が崩れた場面は一度もありませんでしたね。ビーチバレーで活躍している選手たちもレギュラーでがんばっていました。年を重ねたからなのか、感動して涙ながらに見ていました」

“春高ヒロイン”と呼ばれた裏の「不甲斐なさ」

 付属の共栄学園中学校からバレーボールを始めた浦田にとって、やはり春高はひとつの目標だった。

「小学校の時に遊びでバレーをやっていたので、中学校もバレー部があるところに入りたいと思い、強豪校とは知らずに受験したんです。身長はすでに170cmあって頭一つ抜けて大きいので、太田(豊彦・当時の顧問、現明海大バレーボール部監督)先生に声をかけられました。見学だけのつもりが、学校の前に練習着を売っているお店があるから、と先生から言われて、そこからするするっと(笑)」

 入学した年に春高バレーで共栄学園高が初優勝を果たした。その光景を間近で見た浦田は「自分も同じ舞台に立ちたいと思いました」とのめり込んでいった。

「振り返ってみると、私の中に眠っていた負けず嫌いな気持ちが『グワーッ!!』と出てきたように思います。上手な先輩たちについていくのも必死でしたけど、それなりの練習はしているので、みるみる技術を習得していく感覚はありました。先輩たちについていけるようになったら、それが楽しさに変わっていきました」

 共栄学園高に進学した浦田は、持って生まれた身体の強さと柔軟性を活かし、スパイクもレシーブもそつなくこなすプレーヤーへと変貌を遂げていく。春高のシーズンを迎える頃には、ホスト局が毎年取り上げるヒロインとして注目を集めたが、内心はそれどころではなかったという。

「もう必死でした。優勝候補とも言われていたし、ブラスバンド部がきてたくさんの方に応援していただいている晴れ舞台でしたから。なのに、コロッと負けちゃって(97、98年大会ともに2回戦敗退)。最後の年はキャプテンとしてエースとして、達成感とか持っているものを出し切ったという気持ちはゼロでした。自分の不甲斐なさにへこみました」

「レギュラー全員日本代表」NECの過酷な練習

 6年前に掲げた目標は達成できなかったが、高校3年時ユース代表に選出された。そこでピンチサーバー、翌年のジュニア代表ではリベロを経験した浦田は1999年、NECレッドロケッツに入団した。当時のNECといえば、レギュラー全員が日本代表という顔ぶれ。ピンチサーバーで出たり入ったりしていた浦田がスタメンを獲得したのは、入団3年目2001年の頃だった。

「NECは国内トップを走っていたチーム。当然練習も厳しかった。そのうえでさらにレギュラー陣が朝練習や試合後に練習をするんです。新人でレギュラーでもない私たちも混ぜてもらうんですけど、遠征から帰ってきた翌日などは眠くて心が折れそうになるときもありました(笑)。そんな偉大な先輩たちがいたから、頑張ることができた。代表メンバーが抜けた年に、ようやく試合に出られるようになって、ここから行くぞ! という気持ちでした」

 浦田は、長年代表のエース、チームを支えた大懸郁久美が守ってきたレフトポジションに入った。『ポスト大懸』として出場した2001年の黒鷲旗全日本選手権では優勝を経験。第8回Vリーグ(2001-2002)では磨き抜いてきたジャンプサーブや器用さを武器にフレッシュな活躍を見せていた。

「すぐに辞めてどうするんだ」父の反対を押し切って退団

 しかし2002年春、NEC退団とビーチバレーへの転向を突如発表した。

「入社を決めた時、3年は絶対に辞めないと決めていました。それでもその間、すごく大変だったこと、チャンスもなかなか巡ってこない状況だったので葛藤があったのは確かです。それでも、自分で決めた3年はがんばろうと思っていました。そのタイミングで、ビーチの話が舞い込んできたんです」

 ビーチバレーは2000年のシドニー五輪で高橋有紀子/佐伯美香組の試合を寮の部屋で見たのが初めて。正直、一度も経験したことがなかった。浦田は2002年のVリーグ終了とともにチームへ進退を告げた。

「先輩から順に監督と面談をしていくんですけど、下級生は『来年もがんばります!』で終わるところを『すみません、辞めます』と言ったものだから。すんなりとは終わりませんでした。そのとき、チームからは今後の可能性をいろいろ示していただいて、引き留められました」

 チームで高みを目指すか、ビーチバレーという新しいことに挑戦するか。家族にも相談した。父は「そんなにすぐに辞めてどうするんだ」と反対した。浦田は深く悩み続けた。精神的なものが身体に影響したことはこれまでの人生で一度もなかったが、点滴を打つほど体調を崩した。それでも最終的にはビーチバレー転向の想いは揺るがなかった。

浦田がビーチバレーを選んだ理由

 なぜ、ビーチバレーを選択したのか。

「ユースやジュニアを経験したときに身長206cmのガモワ(エカテリーナ・元ロシア代表)がいて小さい日本チームはボコボコにやられました。世界のレベルの高さを感じながらも、いずれは世界を相手に戦いたいという気持ちが芽生えました。NECにいたらレギュラーに定着して日本代表に選ばれ、そこでレギュラーを目指してようやく世界と戦えるという道筋もあったかもしれません。それと比較すると、ビーチバレーはポイントを獲得できれば、ワールドツアーに参戦して自力でオリンピック出場を手にすることができる。そういう部分に魅力を感じ、やってみたいと思いました」

 2002年5月。浦田は、当時西村晃一が立ち上げた「ビーチウインズ」の一員として、朝日健太郎、山本辰生、椿本真恵らとともに新たなスタートを切った。《インタビュー第2回、第3回に続く》

(撮影=三宅史郎)

文=吉田亜衣

photograph by Shiro Miyake