このフェラーリ166MMは、ル・マンとミッレミリアの2冠を成し遂げた唯一のレーシングカーそのものである。数あるフェラーリの中で最も重要な1台といっても過言ではない。『Octane』は世界で初めてその試乗を許された。

ロンドン郊外のハンプトン宮殿で行われるコンクール・オブ・エレガンスは、紛れもなく世界有数のイベントである。歴史は浅いにもかかわらず、すでにペブルビーチやヴィラ・デステと並び称されている。したがって2019 年のコンクールにも、この地球上で最も希少で美しく、羨望され、高い価値を誇る車が集結した。
 
そうした素晴らしい名車の中にも序列は存在する。今年、参加車両のトップに君臨したのは、後世に多大な影響を与えたフェラーリ166MMバルケッタで、数台が宮殿正面の特等席に並んだ。さらにその中で注目の的、スターとなったのが、写真の1台、166MMバルケッタである。イギリスの要となるコンクールで、目玉の中の目玉となったからだ。
 
その理由は、これが普通の166MMではないからだ。これこそがバルケッタの中のバルケッタ、シャシーナンバー0008M、伝説の22号車なのである。1949年に、フェラーリとして初めて、しかも史上稀に見る形でル・マン優勝を果たした上に、同年のミッレミリアも征した。同一のシャシーでこの二冠を達成した例はどのメーカーにもない。さらにいえば、フェラーリは166MMによってロードカーメーカーとロしての地位を確立し、アメリカにも進出を果たした。
 
したがって、フェラーリ史上最も重要な1台とみなされ、最高値のGTO に並ぶ価値があると考えられている。この166MMがイギリスを訪れるのは35年ぶりであり、雑誌が試乗を許されるのはおそらく初めてのことだ。


 
エンツォ・フェラーリはその卓越した手腕で、アルファロメオと自社の両方でレーシングチームを成功させた。しかし、コメンダトーレはそれだけでは満足しなかった。ブランドを築き、レースでの成功を宣伝材料にビジネスとして成立させ、その収益をまたレースに還元し…という好循環を目指したのである。
 
1943年にマラネロに移転して以降、フェラーリが製造した最初の数台は、純粋なレーシングカーか乗り心地の悪いロードカーで、ブランドとしてのアイデンティティーはまだ存在しなかった。そもそも製造数が少なすぎた。フェラーリ最初のモデル、1.5リッターのV12 エンジンを搭載した1947年の125Sは2台のみで、続く159Sも2台である。だが、次に登場した166はより大きな成功を収めた。それを受けて1948年のトリノ・モーターショーで、トゥーリングが166MMを発表する。



車名のMMは、1948年のミッレミリアで166Sが優勝したことにちなんだもので、すぐに、小舟を意味する"バルケッタ"という愛称をジャーナリストのジョヴァンニ・カネストリーニが付けた。デザインしたのは若きカルロ・アンデルローニの下で働くフェデリコ・フォルメンティである。アレマーノによる166Sのデザインを踏襲するはずだったが、どう見ても共通点は少ない。角張ったSに対し、MMは流れるような曲線ですべてを包み込む画期的スタイルだ。もっと重要なのは、166がフェラーリ最初の"デザイン言語"となったことである。エンツォが求めて止まなかった美的アイデンティティーの端緒となったのだ。
 
166MMのシャシーはチューブラーフレームで、フロントはダブルウィッシュボーン、リアはリジッドアクスルと、基本的には125を踏襲していた。だが、ホイールベースわずか2m、車重800kgの"小舟"には、奇跡が詰まっていた。ロードカーとして先行モデルより乗り心地がしなやかになっただけでなく、競技車両としての戦闘力も向上したのである。



心臓部はコロンボが設計した1995cc、60度V型12気筒エンジンには、ウェバー製32 DCFキャブレターを3基(レース仕様の場合。ロードカー仕様の166インターは1基)搭載し、5段ギアボックスを通して出力140bhpを発生。最高速は130mphを超えた。

これほどの性能を誇るので恐ろしく高額だったが(イタリア国内は1 万ドル相当、アメリカでは1 万5500 ドル)、166MMバルケッタは25台製造され、ベルリネッタも6台造られた。加えて166にはSやスパイダーコルサ、インターもあった。何より、166は公道でもサーキットでも同じように優秀だった。つまり、エンツォが思い描いていた、製造→レース→販売、製造→レース→販売…という、ビジネスプランを1モデルで完璧に体現していたのだ。


・・・・次回へ続く