「尊い犠牲」論に、いつも違和感を覚えている。昨年8月15日の全国戦没者追悼式で安倍晋三首相の式辞はこうだった。「皆さまの尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄がある」。両者に因果関係はあるか▼これが例えば19世紀の米国で、一日の労働を8時間に短縮することを訴えて処刑されたデモ指導者なら話は分かる。闘いと犠牲の延長線上に、今の8時間労働があると言えるだろう▼一方、戦後日本は少なくとも表向きは戦争の愚行を否定して出発した。本来、戦没者と連続していてはいけない。死者を敬うきれいな言葉で、けじめがうやむやにされている▼国による顕彰は、肉親を失い深い悲しみを抱えた遺族には、せめてもの救いという側面がある。だが、それを拒否する人もいる。私が知る女性は沖縄戦で亡くした両親について「犬死にだった」という言葉を絞り出す▼「尊い犠牲」「名誉の戦死」「英霊」。全ては次の犠牲を強要し再生産する仕組みだと見抜くからこそ、あえて「犬死に」だと言い切る。戦後も苦労した女性は今、「新しく基地ができて新しく苦労する人が出るのは嫌だから」と、辺野古の抗議行動に参加している▼12日の県民大会で、沖縄は再び「尊い犠牲」となることを拒否した。あすの追悼式で安倍首相らが何を語るのか。耳を澄ましてみる。(阿部岳)