日本に住んでいたら、何かしらの「祭り」の場面を目にしたことがあるでしょう。祭りといってまず思い浮かぶのは、荒ぶる「神輿(みこし)」や華やかな「山車(だし)」の曳き回し。祭りの見所の1つです。そんな祭りに欠かせない神輿や山車、なかでも山車は地域社会とともに時代に合わせて大きく進化してきました。

「そもそも山車って何?」「神輿との違いって?」「山車はなぜ巨大化した?」など、歴史的背景や現在の姿をもとに疑問を紐解きつつ、山車の発展にまつわるストーリーをみていきましょう。

山車と神輿の違い −“そこに神様が乗る”かどうか−

日本には30万超ともいわれる「祭り」があり、それぞれの地域、季節ごとに様々なかたちで伝承されています。でも、そもそも神輿って何でしょう?山車って何でしょう?そう聞かれてはっきりと答えられる人は案外少ないかもしれません。山車の進化を知る上でもこの違いは知っておきたいポイントとなります。

まず、神輿と山車の違いは、“そこに神様が乗るかどうか”です。神輿は“中に神様を乗せている”、山車は“神様が乗っていない”ということが決定的な違いなのです。

神輿は読んで字のごとく“神の乗り物”。神様は普段神社にいますが、祭の時には氏子たちが担ぐ神輿に乗って村や町に出ます。そして、氏子たちの安寧な姿を見て喜び、家々にご神徳を与えてまわるのです。このとき、神輿は神社から御旅所(おたびしょ=神が巡行の途中で休む場所)まで神が移動する際に一時的に使用する乗り物とされます。

御旅所に鎮座する神輿。遠州横須賀三熊野神社大祭御旅所に鎮座する神輿。遠州横須賀三熊野神社大祭にて。

神輿に頭を下げる三熊野神社大祭神輿渡御神の乗る神輿の渡御に頭を下げる氏子たち。遠州横須賀三熊野神社大祭にて。

いっぽう山車は、“神様に降りてきてもらうための目印”。ここが祭場ですと示すもので、依り代(よりしろ)としての役割をもっています。ゆえに山車は、神様が見つけやすいように目立つことが必要で、また、お清めの意味合いもあるため街中を引き回し空間の邪気払いを行います。

このような背景から山車は、神様を乗せる厳かな神輿に対し、“神様を迎え、もてなす”ためにより華やかになり、また地域ごとの民間信仰が加わって、派手になったり部分的に巨大化したりと進化を遂げます。「曳山(ひきやま)」や「鉾(ほこ)」、「屋台(やたい)」「地車(だんじり)」「人型山車」「ねぶた」など、地域や“何を見せたいか” “どこが一番の特徴か”によって呼び名が違ってくるのも山車の変遷の特徴といえるでしょう。

もう一つ、神輿と山車の違いとしてわかりやすいのが、移動の際に“神輿は担いで振る”ということ。現在の祭のシーンにおいても、担ぎ手によって神輿が上下に荒々しく激しく振られている様を目にしますが、じつはこれは魂の活性化を目的としたもの。

手や袖、神輿などで外から霊魂を揺さぶることによって活動力を強くする神道の呪術であるこの「魂振り(たまふり)」は、例えば“鈴を振る”など神道では古来から存在する神聖な行為なのです。神様が居る神輿をできるだけ激しく上下に振ることで、ご神威もより活性化されるというわけです。

ちなみに神様が乗っていない、もてなしの舞台でもある山車は上下に振るのではなく、移動を“引き回す”“練り歩く”と表現します。さて、前者は字面のままですが、“練り歩く”とは、いったいどういうことなのでしょう?そこに山車の発展の要因の一つが隠れています。

なお、神輿と山車の違いだけでなく、山車の種類やその違いを以下の記事にて詳しく解説しています。さらに、それぞれの山車の鑑賞ポイントや山車が登場するお祭も紹介。山車の魅力を網羅的に知ることができますので、ぜひ参考になさってください。

山車とはいったい何なのか?神輿やだんじりとの違いも併せてご紹介!

山車のルーツは「標山」?

ところで、山車はいつ頃登場したのでしょうか。
現在のような「出車」の原型は、平安中期の祇園祭の起源「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」に遡ります。祇園御霊会は、災いをもたらす祟り神を鎮め他の場所へ送り出すために行われた神事です。祟り神の依り代として山を模した物や木の作り物が用いられ、それを海や川に運び、他の場所へ流すことで災いを鎮めようとしました。

山車のルーツを祇園御霊会からさらに古へ辿ると、「標山(しめやま)」の存在が出てきます。日本では、古代より山や木といった自然物を神とする自然信仰があり、「山」はその代表的なもの。神を祀るため松の木などを飾ったりして作る山型の作り物のことを「標山」といい、移動神座のような役割を持っていました。

現在の祭においても、例えば山梨県富士吉田市の「吉田の火祭り」では富士山を模した赤い山型の神輿が登場するなど、山や木を模した飾り物を乗せた山車は数多く存在します。後に、「だし」に「山」の字があてられる理由の一つとしても納得できるのではないでしょうか。

吉田の火祭りの神輿吉田の火祭りで渡御する富士山型神輿。山梨県富士吉田市にて。

祇園御霊会の当時は宮中が主体となって執り行われてきた祭祀が、次第に御霊を祀る際にさまざまな芸能も奉納されるようになり、これが平安末期頃には民間でも御霊の祭礼が行われるように。

いっぽう、御霊会が定例化する中、室町時代の応仁の乱(1467〜1477年)以降、地域経済の担い手として台頭してきた町人(商人)が祭礼を動かすようになり、文化の担い手が貴族や武家から町人にだんだんと移行していき、庶民参加の大型祭礼も生まれ、ここに現代の祭礼=都市型祭礼に通ずるひな形を見ることができます。

※祇園御霊会が現代の祇園祭へと発展していく過程は下記の記事で詳しく解説していますので、併せてぜひご覧ください。

祇園祭を生んだ「祇園信仰」とは何か ― 祇園祭の主役は誰?―

練り歩く、の“練り”は山車から生まれた?

都市型祭礼のひな形ができあがったとはいえ、『年中行事絵巻』に描かれた当時の祭礼の様子を見るとわかるように、乗り物といえばまだ二輪の牛車。現代の山車とはずいぶん異なりますが、実はこの“二輪の牛車”が、山車を曳く様子を現す“練り歩く”という言葉の語源となっているのです。

二輪の乗り物というのはバランスを取るのが難しく、方向を修正しながら左右に行きつ戻りつゆらゆらと振りながら進みます。その様子を「ねりねり」という擬態語で表し、後に変化して生まれた言葉が“練り歩く”だと言われています。

年中行事絵巻の祇園御霊会

年中行事絵巻の祇園御霊会平安時代末期の成立といわれる『年中行事絵巻』に描かれた祇園御霊会渡御行列の一部。見物者の貴族が乗る二輪の牛車が確認できます。/『年中行事絵巻』(東京国立博物館 研究情報アーカイブズ)

また、絵巻には御幣を付けた鉾をもつ人物も多数描かれています。これがのちに大型化し山鉾として担がれ、車輪を付け、山車として引かれるようになっていきます。この頃から町民に田楽を演じさせて祭列を練り歩かせるということが定番化したようです。

現在、山車といえば四輪が主流ですが、遠州横須賀三熊野神社の大祭(静岡県掛川市)では、今も「祢里(ねり)」と呼ばれる江戸天下祭の流れをくむ13台もの二輪の山車が引かれています。一本柱の万燈を掲げ、「シタッ、シタッ!」(大名行列の際の土下座を促す“下に〜、下に”を真似たものだとか)の掛け声とお囃子に合わせて、上下左右に“ねりねり”と揺れながら引き回す姿は圧巻。下記の動画で“練り歩く”の原点を、ぜひその目で確かめてみてください。

ちなみに、江戸時代中期の天下祭を描いた『神田明神祭礼絵巻』の中に、ほぼ同一の形態の山車が描かれています。氏子の皆さんは二輪の祢里を指さして「これ、“山車のシーラカンス”って言われているんだよ(笑)」と教えてくれました。

遠州掛川三熊野神社大祭の祢里遠州掛川三熊野神社の大祭で曳かれている「祢里(ねり)」

なお、先にも書きましたが、私たちのよく知る華やかな大きな山車へと発展するのは、応仁の乱以降の室町時代。京文化とともに都市型祭礼が各地に広がって、その地域ごとの山車文化が形成されていきます。

山車の進化はアレが4つになって加速!?

焼け落ちた京の町から貴族が逃げ出していなくなった室町以降、祭りの担い手が裕福な商人に替わったことで、山車は大きく発展します。なぜなら、商人は商いを通じて財力だけでなく、最新の情報、技術、物を手に入れることができたからです。彼ら商人にとって大事なのは、物流。現代と同様“より多くの物をより早く運ぶ”ことが、商売として重要となってきます。

同時に、車輪の歴史も動きます。
日本最古の車輪は7世紀・飛鳥時代のものですが、当時は二輪でした。奈良時代には車(おそらく二輪)を用いた運搬の記述も出始めます。鎌倉時代の三輪車も、1992年に奈良市二条大路南一丁目の土器用の粘土採取場跡から出土していますが、従来、三輪車の構造をもつ車は江戸時代まではその例がなく、中世までは二輪車しかないとされていました。3つ以上の車輪を用いた車は中世以降になってからのものなのです。
つまりそれは、古くは高貴な人しか使えなかった技術が民間でも使えるように広がっていった歴史であり、山車もその影響を受けているのです。

山車の車輪が二輪から三輪、四輪になることで、山車の大型化が可能になり、豪華さに拍車がかかっていくようになります。
江戸時代の『十二月遊ひ』では、てっぺんに長い鉾を立てた4輪車の山車が描かれており、山車の中には楽器をもった囃子方が乗っている姿も描かれています。山車が大型化したことで曳き回しが楽になっただけでなく、祭りを一層華やかに賑やかに演出できるようになりました。ちなみに「山車=だし」の語源は“出し物”の“だし”にあるとも言われています。

十二月あそひに描かれた四輪山車『十二月遊ひ 2巻. 上』国立国会図書館デジタルコレクションより

山車の発展において、“地に足をつけて”暮らす商人・町人たちにより地域社会が形成されたことは、大きく影響しているといえるでしょう。現代もそうであるように、祭りは地域コミュニティー単位で行うもの。その基盤がしっかりしていないと開催できないのです。そして、人が何代かいて地域の祭りは継承されていくのです。

なお、車輪が4つになったことでデメリットも生まれました。当時、車輪の向きを容易に変えられるような技術は開発されていないわけですから、大きくなった山車のコーナリングでは、相当な力と技が必要となります。とはいえ、岸和田だんじり祭の「やりまわし」や佐原の大祭での「のの字廻し」などにあるように、現代でもそれが山車の最大の見どころにもなっていますよね。

秩父夜祭の山車巨大屋台

秩父夜祭屋台ギリ回し埼玉県「秩父夜祭」の四輪巨大屋台では「ギリ回し」と言われる方向転換も見もの!

<後編>では・・・
江戸時代に入ってさらに巨大化した山車、神田祭や山王祭でド派手に練り歩いた数十台もの巨大山車、しかしそれらが一気に消滅したりと、山車に起こったいくつものイノベーションについて追いかけます。ぜひ併せてお楽しみください!

200年前の神田祭・山王祭の巨大山車は、なぜ消滅し、どこへ行ったのか―山車とイノベーション―<後編>