エッセイをきっかけに私を知ってくださった人とごはんを食べたりする機会があると、「じつは最初、生湯葉さんとしゃべるのちょっと緊張しました」と打ち明けられることがある。そのたびにこちらは、「ウフフ、そんな必要ぜんぜんないですよ」と気さくっぽい感じで伝えはするのだけれど、正直にいうと、なんとなく自分でもわかる気がします、そんなつもりはないけれど本当にごめんなさい……、とも思う。
自分で言うことではないけれど、たしかに私は人に気を遣わせてしまうほうじゃないかとずっとうっすら感じている。どちらかといえばおしゃべりだし、怒ったりもしないから、威圧感は(たぶん)うすいとは思う。ただとにかく、エッセイを書きすぎているのがよくない。
もちろんひと口でエッセイといってもいろいろあって、文筆業の人のなかには、音楽や科学といったご自身の専門分野のことを書いたり、家族のことを書いたりする方もいらっしゃる。小説家の方などは、フィクションとノンフィクションの境界を意図的に溶かすようなエッセイを書かれていることもある。
私は極力、実際に体験したことをそのままエッセイにしたいタイプなのだけれど、(許可いただいた場合を除いて)他者のことをあまりこまかく書くのは避けたい。
とはいえ書くものに一貫した主題があるわけでもないから、そうなるとエッセイが自(おの)ずと自分の話ばかりになる。ここに行ってこんなことを思った、こんな本をきっかけにこんなことを考えた、という話ばかりを何年もしつづけていると、読者の方やお仕事で会う方はありがたいことに、こちらがエッセイに書いたこまかなエピソードを覚えていてくださったりする。
「生湯葉さん、たしか赤だしのお味噌汁めちゃくちゃ好きなんですよね」とか言ってもらえるのはすごくうれしいし、そんなニッチなところまで読んでくれるなんて、と感激する。生湯葉さんはこう書いていたけれど私はこう思っていて、と、エッセイを入り口に自分のことを話してくださるのもありがたい。けれど同時に、私がエッセイにこまかいことを書きすぎているゆえに、ほんとうにこまかなことで人に気を遣わせているというのもひしひしと伝わってくる。
もっと仲良くなりたいなと思っている人から、「たしか早歩きが苦手だってエッセイに書いてましたよね、スタスタ歩いちゃってすみません……」とか、「私にはエリンギのありがたみがまだあまりわからなくて……」というようなことを申し訳なさそうに言われると(やさしい人ほど書いたことを気にかけてくださるんです、ほんとうに)、その場で過去の自分の肩を掴んでつよく揺さぶり、あんたがあんなエッセイなんか書くからだよ、と叫びたくなる。
直接おしゃべりしたあとで、「もっとこまかくて偏屈な人かと思ってたけど、話したらそんなことないんですね」みたいな言葉をかけていただけるのは、ある意味すごくありがたいケースだ。当たり前だけれど、文章をWebで読んでいただいている以上、私が読者の方全員とお話しする機会は現実的に持てないし、私のことを文章を通じてしか知り得ない方のほうがたぶん多い。
だからこそ、私の書くものが誰かを不用意に緊張させたり、過剰なまでに自分のことを省みさせたりしているとしたら、いやだな、申し訳ないなと思う。
体感したことをできるだけ覚えておきたいという気持ちのなかには、どうして私がそれにそのとき惹かれたか、できるだけ分解して言葉に残しておきたいとか、理不尽だと感じたことは 嘘偽りなく書きたいみたいな部分も多分にあって、それが自分のエッセイを書く動機にも分かちがたく結びついている。
そういう描写の素直さやこまかさ、情けなさは自分の性格というか作風でもあると思うので変えたくはないのだけれど、それがときたま人に気を遣わせたりぎょっとさせたりしてしまうことをまるきり無視するのもちがうよな、と思う。
物書きは書くことで人を傷つける覚悟を持て、とはよく言われるけれど、実際に必要なのは自分が書いた言葉を床に広げて隅々まで見渡し、どこかに人を躓(つまず)かせるような段差はないか、どこかに特定の存在を傷つけるような表現がないかをいつまでも点検しつづける丹念さで、それは「覚悟」のような思い切りのいい言葉からはいちばん遠いものだという気もする。
このエッセイも書いたら書いたで誰かに気を遣わせてしまうかもしれないし、あるいは不用意に誰かを傷つけるかもしれないとも思う。もちろん、できるだけそうでないように書いたつもりだけれど。あれは書くべきではなかったとか、言葉足らずだったからもういちど書きなおしたいとか、無数の反省を積み重ねながら、薄氷の上に足跡をつけるみたいにこれからも文章を書いていく。(エッセイスト 生湯葉シホ)