葬祭業に携わっている筆者は、ツイッター経由で匿名の質問を投稿・回答できる「質問箱」というツールを使っています。日々、葬儀に関するさまざまな質問が寄せられるのですが、興味深い質問が来たので解説してみようと思います。

「弔辞を述べる意味って何ですか? 死んだ人は、いくら言葉を掛けても声を聞くことはできません。だったら、生きている間に直接話せばいいのにと思います」

 スピリチュアル的に答えるならば、「死んで、体が停止しても、魂には聞こえるものなのです」と答えればよいのでしょう。実際、これも一つの答えとして間違いではないと思います。

 筆者は葬祭業を長くやっていますが、難しいのは、こうした回答で納得してくれない人が一定数いるということです。「魂の実存」は物理的に証明できるものではないからでしょう。そのため、「死んだ人はもう分からないのに、なぜ、弔辞をはじめとした弔いをするのか」という質問を幾度もぶつけられることがあるのです。

優しくも悲しい「バカヤロー」

 筆者の地元の、少し年上の先輩ががんで亡くなり、葬儀の依頼を受けたことがあります。ご遺族は「本人が言っていたので…」と家族葬を希望されました。しかし、先輩の交友関係を考慮すれば、仲間に何も言わずに旅立つのは、地元の仲間たちが納得してくれないであろうことは、筆者には分かっていました。それくらい、みんなに愛されていた先輩でした。誰とでも仲良く、誰に対しても優しく、そして、誰からも頼られていた、そんな先輩の旅立ちだったからです。

 ご遺族の思いを考慮した上で「主要な範囲の友達にだけはお知らせした方が、後から、弔問で忙しくなることもなく、ご家族が安心して故人を送れる」ことを伝え、限られた範囲にだけ、訃報を伝えることになりました。すぐさま、仲間たちが飛んできて、自宅に安置した先輩にお参りをしました。大の大人が顔をグシャグシャにして、「信じられない」「早過ぎるよ」と口々に言いながらです。

 長い時間を過ごした仲間の死とはそういうものであり、高齢の大往生が当たり前になった世界では、なかなか想像がつきにくくなっているかもしれませんが、長く過ごせば過ごした分だけ、思いも増えてしまうものです。「仕方ない」とはいえない年齢であったり、病状のことを知らされていなかったりした場合は、突然のことでショックが大きく、すぐに受け止められないのは容易に想像がつきます。

 その先輩と小さい頃から仲が良く、長い時間を一緒に過ごしてきた人がしんみりと「お顔を拝見してもいいですか」と白布をめくって、先輩の顔を見たとき、何とか落ち着こうとしていた表情が崩れ、涙とおえつを伴いながら、「バカヤロー、何で死ぬんだ、早いだろ!」と声を上げていたことを覚えています。

 ここで本題に戻ります。「弔辞を述べる意味」とは何なのでしょうか。

「死んだ人に声を掛けても聞こえないし、意味がない。だから、言う必要がない」。果たして、本当にそうでしょうか。先輩の友人が発した「バカヤロー」は単なる感情の発露だったのかもしれませんが、人には、たとえ、相手が聞こえていても聞こえていなくても、その相手だから伝えてしまうことがあるのだと思います。

「弔辞」とは弔いの言葉です。仲間たちの「早過ぎるよ」「どうしてこんな…」も、短くも気持ちのこもった弔いの言葉です。葬儀のときの弔辞は、そうした言葉をかしこまった場で伝えているだけなのです。つまり、弔辞とは、弔いの場において“手向けの花”として添えられる、言葉の形をした“花”なのです。「死んでしまったのだから」「もう分からないのだから」という理屈を肯定すれば、花は一輪も必要なくなります。

 また、その花には「遺族の心を慰めるためのもの」という解釈も存在します。しかし、旅立ちに添えられ、手向けられる花は相互性を持つものです。遺族の気持ちを慰め、故人の旅立ちを飾る。そのどちらにとっても、手向けられた花には意味があります。旅立つ者と送る者とがつながっていること、それが花なのです。

 そして、花は弔辞において、言葉として咲きます。故人との思い出がよいものであったこと、「生」がいとしいもの、よいものであったゆえに、この死や惜別が受け止めがたく、残念なものであることが語られます。本人は死んでしまった。脳も止まってしまい、もう何も聞こえない。理解することもできない。けれど、故人が旅立った世界や託された世界で声を上げずにはいられない一つの叫びのようなもの、その旅立ちに添えられた花のようなものが弔辞なのではないでしょうか。

「弔辞は必要ない」という人へ

 現代において、多くを占める家族葬では、弔辞はありません。これは、弔辞が葬儀の中で必須ではないからです。葬儀をどのように行うかは遺族に任されています。故人がどう意思表示をしようと、葬儀を行うときには亡くなってしまっているのですから、意思を受け止めた上で決定するのは遺族です。やるか、やらないかを強制されていないものを「意味がある」とか「意味がない」と言っても何も変わりません。

 弔辞を読んでほしいと思い、読むにふさわしい人がいるなら、依頼をすればいいですし、そうでなければ、弔辞がなくても、葬儀は問題なく進行できます。むしろ、弔辞がない葬儀の方が多くなっているのが現在の葬儀の状況です。これは「弔辞が必要ないから」というわけではなく、高齢化が進み、葬儀に参列する人数が少なくなり、「故人の人柄はみんな知っているから、誰かにわざわざ、弔辞として頼まなくていいよね」という認識になったからに他なりません。

 その分、かしこまっていない形で故人に言葉をかける時間を長く取り、お別れの時間を重視する葬儀に変わってきたといえます。現代は全てのことにおいて、「意味があるかどうか」を問う世の中になりつつあります。「意味のないことはやめてしまえばいい、その方が分かりやすい」という価値観が、不景気の中で少しでもお金を、そして、労力を節約したい、むしろ、節約せざるを得ない精神構造になっているからではないでしょうか。平易な言葉でいえば、「余裕がない」ということです。

 しかし、これまで続いてきた文化は、たとえ、言語化できずとも一定の価値があって存続しているものがほとんどです。「別れの言葉を故人にささげる」のは生きている人にとっても、亡くなった人にとっても大切なことです。この行為が無意味であれば、故人に言葉を送る文化がこの時代まで続いているとは考えられません。

 損得や満足・不満足で考えれば、近しい人の死に際して、別れの言葉をささげても、得や満足は得られないかもしれません。しかし、人間はそんなとき、何かを発せずにいられないものです。そうした営みが、家族や仲間といったつながりが続いていくコミュニケーションの一つだと筆者は感じています。