乱世に活躍した戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史を研究してきた筆者が解説します。

 黒田官兵衛の「官兵衛」は通称で「仮名(けみょう)」ともいいます。名乗り、すなわち諱(いみな、本名)は孝高(よしたか)で、出家してからの如水(じょすい)の名でも知られています。豊臣秀吉の軍師として有名ですが、はじめは播磨国(現在の兵庫県)の小さな戦国大名・小寺政職(まさもと)の家老の家に生まれました。1546(天文15)年のことです。

信長の飛躍を予想した先見性

 官兵衛は1567(永禄10)年、22歳で父・職隆(もとたか)から家督を継いで姫路城主となり、小寺家の家老の一人となります。その頃、播磨国は東から織田信長、西から毛利元就、元就死後は孫にあたる輝元の力が伸びてきて、どちらの陣営に属すか岐路に立たされていました。

 主君・小寺政職の家老の多くは毛利陣営に属すことを主張しましたが、官兵衛は織田陣営に属すことを主張し、政職を説得しています。この辺りで、官兵衛の先を読む力は特筆されることだと思います。しかも、先見性だけでなく、実行力もありました。この官兵衛の先読みと決断は、現代を生きる私たちにも大きなヒントになるのではないでしょうか。

 官兵衛が、小寺政職の使いとして岐阜城の信長のもとに出かけ、「小寺家は織田方につくことを決めました」と報告したのは、1575(天正3)年7月のことです。信長が長篠・設楽原(したらがはら)の戦いで武田勝頼を破ったのがその年の5月21日のことですから、情報収集力のすごさも脱帽ものといってよいでしょう。

過剰な自信が招いた? 1年間の幽閉

 そして、いよいよ、織田軍の「中国方面軍司令官」として羽柴(後の豊臣)秀吉が1577(天正5)年10月、播磨国に乗り込んできました。その時、官兵衛は自分の居城だった姫路城を秀吉に譲っているのです。そのため、この後、姫路城が秀吉の中国攻めの最前線となり、同時に、官兵衛が秀吉の軍師のような立場となります。

 秀吉による播磨平定は、官兵衛と、秀吉の以前からの軍師・竹中半兵衛重治らの働きによって順調に進みましたが、翌年10月、摂津有岡城主・荒木村重が謀反を起こし、官兵衛はその説得に行ったまま、1年間、有岡城に幽閉されてしまいます。「自分が説得に行けば大丈夫」とやや甘い考えがあったのかもしれません。

 実は、官兵衛には少し自信過剰なところがあったようなのです。これが官兵衛の欠点だったと思われます。

 実際、1582(天正10)年6月の本能寺の変の後、信長の死を聞いた秀吉が落ちこんでいるところを、「これぞ、天下取りの好機」と秀吉を励まし、例の中国大返しを敢行させたのも官兵衛ですし、その後に続く、賤ケ岳(しずがたけ)の戦い、四国攻め、九州攻めなど、軍師官兵衛の面目躍如たるものがあり、自信を持って当然なのですが、おごりの気持ちがどこかに生まれていたのかもしれません。

 だいぶ後のことになりますが、1593(文禄2)年の文禄の役の時、朝鮮の東莱(トンネ)城で浅野長政と囲碁を打って石田三成らを待たせてしまいます。その弁明のため、官兵衛は無断帰国をし、怒った秀吉によって蟄居(ちっきょ)謹慎を命じられています。この時、官兵衛は謝罪のため文字通り頭を丸め、如水と号することになりました。