竹中半兵衛は美濃(岐阜県南部)出身の武将ですが、そのエピソードは各種「太閤記」ものによって創作された話が多く、実像がつかみにくい武将です。ただ、武力ではなく、知力によって豊臣秀吉の初期、木下藤吉郎時代、羽柴秀吉時代を支えた一人であったことは間違いないと思います。

わずかな手勢で城を乗っ取る

 黒田官兵衛とともに「二兵衛」などといわれ、「秀吉二人の軍師」と表現されることから、2人が並び立っていたという印象を受ける人が多いようですが、実際のところは、半兵衛が亡くなった後、それに代わって官兵衛が台頭してくるという形でした。

 半兵衛は仮名(けみょう)、つまり通称で、名乗り、すなわち諱(いみな、本名)は重治(しげはる)といいました。生年について書かれたものはないのですが、1579(天正7)年に没したときの年齢が36といわれていますので、逆算すると1544(天文13)年の生まれとなります。

 半兵衛の名を一躍有名にしたのは、1564(永禄7)年の稲葉山城(後の岐阜城)乗っ取り事件です。難攻不落といわれた稲葉山城の城主は、斎藤道三の孫にあたる斎藤龍興。それまで、織田信長が何度攻めても落ちなかった城でしたが、半兵衛はたった16人の家臣を従えただけで城を乗っ取ったのです。

 これは謀反を起こしたのではなく、龍興の家臣だった半兵衛が龍興とその寵臣(ちょうしん)たちをいさめるためのもので、少しして城は龍興に返しています。しかし、この出来事で半兵衛の名は「わずかな人数であの難攻不落の稲葉山城を奪った」として、瞬く間に知れ渡りました。

 稲葉山城が意外にもろいということを知った信長は1567年、稲葉山城を攻め、龍興は逃げ出して美濃は信長の手に入ります。この頃、秀吉が半兵衛に信長への仕官を勧めています。何度も半兵衛の元に通ったという逸話が後世「藤吉郎三顧(さんこ)の礼」として有名になるのですが、これは中国の小説「三国志演義」にみえる劉備(りゅうび)が諸葛孔明(しょかつこうめい)を軍師として招くのに、三顧の礼をもってしたという話が下敷きになったもので、事実ではなさそうです。

戦わずして味方増やす

 細かい経緯はともあれ、結局、半兵衛は信長に従うことになり、秀吉の与力につけられます。秀吉はこの後、半兵衛が与力として自分についたことで躍進を遂げます。

 信長と、北近江(滋賀県北部)小谷(おだに)城主の浅井(あざい)長政とが戦ったとき、半兵衛は浅井長政の家臣の寝返り工作を進めました。もともと半兵衛の居城菩提山(ぼだいさん)城(岐阜県垂井町)は美濃・近江国境に近く、半兵衛は近江の長政家臣と接触していたのです。

 この功績は大きく、文字通り戦わずに味方にしてしまうという切り崩し工作によって、浅井氏を滅亡に追いこんでいきました。軍師としての半兵衛の名が信長にも知られていくことになります。

 なお、半兵衛というと黒田官兵衛とのつながりも忘れることができません。摂津有岡城(兵庫県伊丹市)城主だった荒木村重が信長に謀反を起こしたとき、説得に行った官兵衛が幽閉されてしまいました。信長は官兵衛が村重の味方になったと思い、人質に取っていた官兵衛の子松寿丸(しょうじゅまる、後の黒田長政)を殺すよう秀吉に命じています。

 しかし、官兵衛が寝返るはずはないと考えた半兵衛は秀吉の一任を受けて、松寿丸を生かします。官兵衛はその後、1年間の幽閉生活で脚などを悪くした状態で救出され、半兵衛の判断が正しかったことが証明されました。

病を押して出陣、陣中で病没

 そんな半兵衛ですが、一つだけ残念なことがあります。それは、病気がちだったにもかかわらず、無理を押して秀吉の中国地方攻めに従って出陣してしまったことです。一時、京都で療養をしていましたので、そのまま療養を続けていればよかったのですが、三木城(兵庫県三木市)攻めの陣中で病没してしまいました。

 秀吉を軍師として支えるという半兵衛の仕事は、子どもの命を救われた官兵衛に引き継がれ、天下統一へとつながっていきます。