この「戦国武将に学ぶ」では毎回、1人の武将を取り上げ、前半でその武将のプラス面、つまり、功績などの優れた面にスポットをあて、後半で問題点なり、課題なりに触れてきました。

 しかし、今回、取り上げる織田信長は特筆事項が多く、1回ではまとまりそうにありません。そこで、信長については2回に分け、今回はいい面を扱い、次回に悪かった点に触れたいと思います。

父が築いた商業立国、さらに推進

 よく、信長のことを「突然変異のように天才が生まれた」などといいますが、それは正しくありません。信長の父・織田信秀がまず、すごかったのです。ありきたりな言い方になりますが、信長も親の背中を見て育ったといえます。

 信秀が津島湊(みなと、愛知県津島市)と熱田湊(名古屋市)を掌握し、伊勢湾水運によって富を得ていたのを見ていた信長は、商業立国をさらに推進していきました。瀬戸物などの特産品の奨励、さらに楽市楽座政策、関所撤廃、道路や橋などのインフラ整備によって商品流通を盛んにしていったのです。商人たちから得たお金で兵を雇う兵農分離施策も可能になりました。

「槍働きより情報」

 筆者が「信長はすごい」と思っている理由の一つは、従来の価値観に縛られないそのやり方です。具体例を挙げておきましょう。1560(永禄3)年5月19日の桶狭間の戦いに関してです。当時は、戦いが終わると必ず論功行賞の場がもたれました。

 桶狭間の戦いの日、敵将・今川義元に真っ先に槍(やり)をつけたのは服部小平太という家臣でした。しかし、義元も必死の抵抗をしましたので首は取れず、2番手に飛び込んだ毛利新介という家臣が首を取ります。服部小平太が一番槍の功名、毛利新介が一番首の功名というわけで、このような場合、どちらかが一番手柄とされるのが普通でした。

 ところが、論功行賞の場で信長が最初に名前を呼んだのは、この2人ではなく、簗田(やなだ)政綱という家臣でした。簗田政綱は、その日の今川軍の動きを逐一、信長に報告していたのです。信長としては、その情報をもとに、桶狭間山で休憩中の義元本隊に奇襲攻撃をかけるという作戦を考え、しかも、政綱からの情報でこの日、義元が輿(こし)に乗っていることをつかんでおり、「輿のある辺りを集中攻撃せよ」という命令が出せたのです。

「槍働きより、情報の方が上だ」という、新しい価値観が生まれた瞬間といってよいでしょう。

秀吉と光秀、能力本位で登用

 そして、もう一つ注目されるのが信長流人事です。一般的に、それまでの戦国武将の家では、譜代門閥主義を取っています。親が家老ならば、子が家老を継ぐといった形です。役職なども世襲が当たり前でした。

 ところが、信長はそうした譜代門閥主義から、能力本位の人材抜てきへと大きくかじを切っています。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と明智光秀の登用にそのことは明らかです。

 秀吉は尾張の貧しい農民の出です。光秀は美濃の武士の出ですが、しばらく浪人生活を送っていたことが知られています。その秀吉や光秀が、先輩格で宿老などといわれた柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛らと肩を並べ、やがて追い抜いていくことになります。

 織田家臣団の「一国一城の主」第1号は光秀で、第2号が秀吉でした。これは、ほかの戦国大名家では考えられないことといってよいのではないでしょうか。

 さらに、当時は戦いに負ければ恥を後世に残さないよう切腹するのが当たり前でしたが、信長は1570(元亀元)年の越前朝倉攻め失敗のとき、みじめな姿で京都に逃げ戻っています。切腹せず撤退しているわけで、敗北を「リセット」と考えていたことが分かります。これも、新しい価値観といっていいでしょう。