三好長慶は、1522(大永2)年に生まれています。父・元長は、室町幕府の覇権を争った細川澄元の子・晴元に仕えていましたが謀略によって殺され、1533(天文2)年、長慶が12歳で家督を継ぎました。

将軍を追い、幕府の実権を握る

 1539年、摂津国西半国の支配を任され、越水(こしみず)城(兵庫県西宮市)に本拠を置きますが、近くの兵庫が港湾都市として栄えていたことが、長慶が飛躍する大きな要因となりました。

 その後、細川氏は晴元と、室町幕府管領(かんれい)だった高国の養子・氏綱が対立し始め、長慶は晴元と手を切り、氏綱側となります。そして、1549年、現在の大阪市東淀川区が戦場となった「江口の戦い」で同族の三好政長を討ち、しかも、12代将軍・足利義晴と管領・細川晴元を京都から追放し、氏綱を奉じて入京。事実上、畿内を制圧することに成功しました。

 翌1550年7月には、13代将軍となっていた足利義輝の軍勢と京都で戦って、長慶はさらに優位に立ち、2年後の1552年には、近江に流浪していた義輝と講和して、義輝を京都に迎え、細川氏綱を管領に据えます。しかし、実権は長慶が握り、周りから「三好政権」と呼ばれるようになりました。

 その頃の長慶の居城は芥川山(あくたがわさん)城(大阪府高槻市)で、その後、飯盛山(いいもりやま)城(大阪府四條畷市・大東市)に移っています。ただ、実力は抜群でしたが、あくまで細川氏の被官(家臣)にすぎません。そこで、長慶は将軍の直臣の名目を得るため、初めは、将軍外出時などに供をする御供(おとも)衆の列に加わり、1560(永禄3)年には、殿中での宴席などに付き従う将軍家御相伴(ごしょうばん)衆に列しています。

 長慶による三好政権の特徴は、将軍や管領を「かいらい」として実権を握っていることで、この後の織田信長の先取りといわれ、信長に先行する「天下人」とも称されているのです。

 三好政権を支えていたのは、3人の弟たちでした。すぐ下の弟・之康(ゆきやす)は名乗りを義賢とも之虎ともいい、出家後に実休(じっきゅう)と号したことで知られています。次は冬康で、淡路水軍を率いる安宅(あたぎ)氏を継ぎ、その次は一存(かずまさ)といって、讃岐(香川県)の十河(そごう)氏を継いでいました。3人の弟が本拠の阿波・讃岐・淡路といった国々を固めることで、長慶の中央政界での活躍を支える形となっていました。

 特に、安宅氏のように、淡路から大坂湾にかけての水軍を握っていたことは大きく、しかも、堺商人と結んで財政基盤を固めていたことも注目されるところです。

家臣に実権を奪われる

 再び、足利義輝を近江の朽木(くつき)に追放してからは、本来、幕府が裁許(判決)を下すべき訴訟沙汰についても、長慶が裁許をするようになります。文字通りの三好政権であり、長慶の全盛時代でした。ところが、意外なことに、その全盛時代はそう長くは続かなかったのです。政権は思ったほど強固ではなく、逆に、もろかったといってもいいと思います。

 その要因は、2つあったと見ています。一つは、三好政権を支えていた弟や息子の相次ぐ死です。1561(永禄4)年に十河一存が病死し、翌年には、之康が根来(ねごろ)寺(和歌山県岩出市)衆徒との戦いで、鉄砲の流れ弾に当たって戦死してしまったのです。

 さらに翌1563年8月、長慶の子・義興が22歳の若さで芥川山城において亡くなりました。病死とされていますが、一説に、家臣の松永久秀による毒殺ともうわさされています。義興が死ぬと、十河一存の遺児・義継を養子としましたが、以前のような覇気は見られず、意気消沈した状態が続きます。

 結局、その後、松永久秀に実権を奪われていくことになります。久秀の急速な台頭を抑えられなかったのが、没落のもう一つの要因かもしれません。将軍や管領から実権を奪い、実力で天下人にのし上がった長慶は自らも、実力をつけた家臣によって覇権を奪われたのです。翌1564年7月4日、飯盛山城下の屋敷で没しています。