上杉謙信は越後守護代・長尾為景の末子として、1530(享禄3)年に春日山城(新潟県上越市)で生まれています。7歳で春日山城下の林泉寺に入り、四書五経や漢詩にも精通した住職・天室光育(てんしつこういく)の薫陶を受け、元服後は「景虎」と名乗っています。

最前線に立ち、敵陣に切り込む

 父・為景の死後、家督は兄の晴景が継ぎましたが、やや病弱気味で、1545(天文14)年、家臣の黒田秀忠らが反乱したとき、兄・晴景に代わって景虎が出陣。その反乱を鎮圧し、さらに揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる阿賀野(あがの)川以北の豪族を平定しています。

 この結果、「病弱の晴景よりも、戦術・戦略に優れた景虎の方が家督にふさわしい」という声が上がり、そうした声に押されて、1548年、長尾家の当主に迎えられ、晴景に代わって春日山城主となりました。

 なお、この後、長尾景虎は1561(永禄4)年、関東管領(かんとうかんれい)だった上杉憲政(のりまさ)から、上杉家の名跡(みょうせき)と関東管領の職を譲られ、「上杉政虎」と改名。さらに、室町幕府13代将軍・足利義輝から「輝」の字を与えられて「輝虎」を名乗り、1571(元亀2)年からは「謙信」と号していますが、便宜上、以下、謙信と表記します。

 合戦のとき、普通、戦国大名当主は身の危険があるので最前線には立ちませんが、謙信は真っ先に敵陣へ乗り込んでいます。

 1559年の下野唐沢山(からさわやま)城の戦いのとき、北条方3万5000の兵に囲まれた唐沢山城を救うべく、8000の兵を率いて後詰(ごづめ)に向かい、何と謙信自ら、甲冑(かっちゅう)も着けずに黒い木綿の道服(どうぶく)を着、十文字の槍(やり)を握り、わずか45騎で、十重二十重に城を包囲している敵陣の真っただ中を押し通ったといわれています。そうした戦いぶりで領国を広げ、「越後の竜」と称されました。

 その「越後の竜」に立ちはだかったのが「甲斐の虎」武田信玄です。謙信・信玄の信濃川中島を舞台とした「川中島の戦い」は、1553年の第1回戦から1564年の第5回戦まで11年間も続けられています。最大の激戦となったのが第4回戦、1561(永禄4)年9月10日の戦いで、この戦いでは両雄の一騎打ちがあったとされていますが、実際のところは分かりません。ただ、謙信が信玄の本陣近くまで攻め込んだことは事実のようです。

同じ敵と戦い続け、次代には禍根も

 このように勇猛果敢、武将として非の打ちどころがないような謙信ですが、残念な点がいくつかあります。

 1つ目は、敵の城を落とした後のフォローがうまくなかった点です。先述の唐沢山城を例にとると、謙信が取り戻し、謙信が越後に引き揚げると北条氏が取り戻し、また、謙信が出てくるということを何回もしています。越後から山を越えて関東へ攻め入る「越山(えつざん)」が繰り返されたのはそのためです。

 2つ目は、11年間も川中島で武田信玄と戦ったことです。謙信と信玄が川中島でにらみ合っている間隙(かんげき)を縫って、織田信長が足利義昭を擁して上洛(じょうらく)したことからも、そのマイナス面は明らかです。北条氏と同盟したり、敵対したりと、外交戦略に一貫性がなかった点も惜しまれる点といってよいでしょう。

 そして、3つ目が後継者を巡る失敗です。謙信は出陣の前に必ず、春日山城内の毘沙門堂(びしゃもんどう)にこもって戦勝祈願をしており、その呪力(じゅりょく)を落としたくないとの思いがあったのでしょう。女性を近づけていません。正室を迎えず、もちろん、側室も持たなかったので子どもはいませんでした。

 そうした場合、普通は誰か1人を養子に迎えるのですが、謙信は3人も養子に迎え、しかも、誰を家督にするか明言していませんでした。その結果、景勝と景虎という2人の養子が争う「御館(おたて)の乱」を引き起こすことになり、次代に禍根を残してしまったのです。