障害のある子どもと、ない子どもが共に学ぶ仕組み「インクルーシブ教育」が推奨されています。しかし、果たして、「何もかも一緒」にすることは子どもたちにとって本当によいことなのでしょうか。

騎馬戦のメンバーには入っているけど…

 私の息子は知的障害のある自閉症です。小学校は特別支援学級に在籍していましたが、運動会などの行事や休み時間は通常級の子どもたちと一緒に過ごしていました。運動会での出来事です。その日は通常級の子に混ざって、支援級の子も参加することになっていました。息子は多動で足は速いのですが、他者と競う気持ちがないので、運動会ではせかしても全力疾走せず、小走りするという感じでした。

 リレーの出番が近づいてきた頃、私は写真を撮ろうと入場門に近寄りました。すると、通常級の子どもが「ちぇっ、あいつが入ってきたぜ。俺たち、負けるな」と言っているのを耳にしました。「ここ一番の勝負のとき、そう感じるのは当然だなあ」と私は思いました。

「○○(息子の名前)が足を引っ張ってしまうことになってごめんね」と謝ると、子どもたちはばつが悪そうな顔をしました。それが余計に嫌でした。騎馬戦のときも玉入れのときも、息子は参加メンバーには加わっていながら、ただそこに突っ立っているだけでした。息子が入ったグループは完全に不利になったのです。私は同じ土俵に立たせて競わせるのではなく、例えば、走者にバトンを渡す係などリレーで競う以外の参加方法にしてほしいと感じてしまいました。

 また、息子には食物アレルギーがあります。生まれ持った体質なので、他の子と違うものを食べる経験は大切なことだと思って育ててきました。周りの子がプリンやケーキを食べていても、息子にはせんべいを与えていました。しかし、放課後等デイサービスでは「○○君(息子の名前)に合わせて、これから皆で牛乳なし・卵なしのおやつを食べましょう」とされました。

 息子への配慮には感謝しつつも「卵入りのおやつを楽しみにしている子どももいるだろうに…。それって“平等”を履き違えているのでは」と感じてしまった出来事でした。

合理的配慮は「ずるい」?

 クラスに、学習障害(LD)のAくんがいました。彼は文字が読めないので、担任はテストの時間に彼だけ教卓の横に座らせ、先生が問題を読み、答えを口頭で聞いて○や×をつけていました。すると、他の児童たちから「ずるい! 僕も先生の横に座りたい!」と文句が出たのです。

 困り果てた担任は「この子(Aくん)だけ特別扱いはできない。えこひいきになってしまうし、いじめに遭ってしまうかもしれない」と感じ、個別対応を諦めました。近視の子に対して眼鏡を禁止して、「黒板の字を写しなさい」とは言いません。眼鏡だけでなく、黒板の近くの席にするなどの配慮もするでしょう。ところが、発達障害については他の子と同じ学習方法をとってしまうという例です。

 障害がある人の不当な扱いを禁止し、個々のニーズに合った合理的配慮の提供を求めることによって、障害による差別を解消しようとする「障害者差別解消法」があります。これに沿って対応しなくてはならないのに、他の児童のクレームに押し切られてしまうのはどうなのでしょうか。Aくんはきっと、この経験から、「僕は周りに助けを求めてはいけないんだ。何もかも自分の努力で、これからの人生を歩んでいかなくてはならないんだ」と思ったでしょう。

 図(1)は学習障害児の見え方の一例です。目を細めると、何とか「ココロ」の文字が見えます。他の児童には(2)のように普通に見えています。このように、背景と文字の境界が混ざってしまい、行を飛ばしたり、読めなかったりします。こんなときは読書補助具(リーディングスリット)を使わせればよいと思います。

 また、黒板の文字を写せないのならば、タブレット端末で写真を撮らせればよいですし、通常の教科書を読むことが難しければ、デジタル教科書「マルチメディアデイジー教科書」を利用すればよいのです。

 塀の向こうにあるものを、背が低い子に「背を高くして見なさい!」と言っても無理ですが、踏み台を使えば、背が高い子も低い子も平等に見ることができます。勉強も同じです。合理的配慮とは、同じ土俵でチャレンジするための「サポートの形」であると思います。踏み台がすなわち、リーディングスリットやタブレットなのです。

 共に学ばせながら、時には健常児と障害児の教育環境を変えたり、違う課題を与えたりするのが本当のインクルーシブ教育ではないでしょうか。学校関係者や保護者、児童に理解が深まることを願います。