徳川家康というと、若い頃は織田信秀、次いで今川義元の人質となり、独立してからも、同盟関係とはいえ主従関係に近い織田信長の下で年月を過ごし、信長亡き後も秀吉の下での隠忍自重(いんにんじちょう)の数年間があるため、「忍の一生」といったイメージで語られることが多くあります。

 どうやらそれは「人の一生は重荷を負(おう)て遠き道をゆくが如(ごと)し」で始まる「東照公御遺訓」によって形づくられたもののようですが、この遺訓は残念ながら、家康が残したものではありません。これまで何となく、「非のうちどころのない完璧な家康像」が描かれているようですが、果たして、家康に欠点はなかったのでしょうか。

関ケ原でのいら立ち

 家康の癖として知られているのは爪をかむ癖です。いらいらしたとき、よく爪をかんだといわれているので、度々、いらいらすることがあったと分かります。家康というと、いつも泰然自若(たいぜんじじゃく)として感情を表に出さないように思われていますが、必ずしもそうではなかったことがいくつかのエピソードから浮かび上がってきます。

 例えば、1600(慶長5)年9月15日の関ケ原の戦いのとき、西軍・石田三成方が予想外の善戦を続けていることにいら立った家康は、たまたま、馬に乗ったまま近くに現れた家臣の野々村四郎右衛門を刀で斬りつけようとしたり、すぐそばに仕えていた小姓の指し物(さしもの)を切り落としたりしているのです。

 もっとも、この程度のいらいらは人間誰しも経験することではあるので、取り立てて、欠点だとまではいえないかもしれません。ただ、次に挙げる、肉親に対する冷たさは「欠点」といえるのではないかと思われます。

容貌で子を嫌う?

 家康には男子だけで11人の子がいましたが、11人を平等にかわいがっていたわけではないようです。いくつかの文献から、かわいがった子とそうではなかった子とに分かれることが分かります。

 ここで、21歳のときに切腹させられた長男・信康と幼くして亡くなった七男・松千代、八男・仙千代の3人は別とします。信康については、切腹の理由が武田勝頼との内通の疑いからか、素行の悪さからか説が分かれているためです。残る8人について、家康がかわいがって育てた子とそうではなかった子とにはっきりと分かれるのです。

 かわいがって育てたのは三男・秀忠、四男・忠吉、五男・信吉、それに九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房の6人です。義直は1600年、家康59歳のときの子ですので、九男、十男、十一男は孫のような存在です。膝の上に乗せるなどして育てたのでしょう。

 それに対し、家康が冷たい態度や処遇を示したのが次男・秀康と六男・忠輝です。秀康については、秀康を産んだお万の方が懐妊したときに、まだ家康の側室ではなかったので、家康自身、「本当に自分の子か」と疑いを抱いていたという理由のほか、赤ん坊のときの顔がナマズの仲間の「義義(ギギ)」という魚に似ていて、その容貌を嫌っていたからとの説もあります。ちなみに、秀康の幼名「於義丸」は家康が「義義みたいな顔をしている」といったからともいわれています。

 結局、秀康は1584(天正12)年の小牧・長久手の戦い後、家康が豊臣秀吉と講和した際、人質として秀吉のもとに送られました。年齢順でいえば、このとき、秀康が一番年長の子ですので、普通は手元に置くところですが人質に出されたのです。秀吉も家康の子を人質というわけにはいかず、形の上で養子としたため、秀康は豊臣の人間にされた形でした。兄の秀康を差し置いて、弟の秀忠が徳川の家督を継いだ一因でもあります。

 もう一人、家康から嫌われていたのが六男の忠輝で、やはり、容貌怪異(かいい)だったといわれています。最終的に、家康はこの忠輝を勘当し、蟄居(ちっきょ)させています。温厚と思われている家康の「別の顔」が見えるのではないでしょうか。