島津氏は鎌倉時代以来の名門で、戦国時代、義久・義弘兄弟のときに急成長を遂げています。義弘は1535(天文4)年、島津貴久(たかひさ)の次男として生まれ、兄・義久と弟・歳久、家久の4兄弟によって、薩摩・大隅(鹿児島県)全体、さらに日向(宮崎県)へと版図を拡大していきました。

九州席巻の勢い見せる

 その頃の九州では、豊後の大友宗麟、肥前の龍造寺隆信の勢力が強大で、島津氏と合わせて、「九州三強」といわれ、九州9カ国をほぼ3カ国ずつ支配する形でしばらく推移していました。しかし、1578(天正6)年の「耳川の戦い」で島津氏が大友宗麟を破り、1584年の「沖田畷(おきたなわて)の戦い」で龍造寺隆信を破ったことで「島津一人勝ち」の状態に。その勢いで九州を席巻するまであと一歩というところで、豊臣秀吉から「待った」がかかりました。1587(天正15)年の秀吉による九州攻めです。

 このとき、義久、義弘兄弟は九州北部の豊前、豊後、あるいは筑前などで20万を超す秀吉の大軍を迎え撃つのは無理と判断し、薩摩、大隅、日向を固める作戦に出ました。ところが、義弘率いる島津軍主力が日向の根白坂という所で豊臣秀長の軍勢と戦って敗れたため、これ以上の抵抗は無理と判断し、降伏しました。徹底抗戦しなかったことで家を残したことになるので、先見の明はあったといえます。兄・義久は出家し、島津家は薩摩、大隅と日向の一部を安堵(あんど)されました。

 義久に子どもがいなかったことで、秀吉の命令によって、義弘の子・久保(ひさやす)が家督継承者になりましたが、文禄の役のとき、久保が朝鮮で病死してしまい、久保の弟・忠恒(のち「家久」と改名)が跡継ぎとなりました。

 義弘の武功として特に有名なのが、2度目の朝鮮出兵「慶長の役」のときの「泗川(サチョン)の戦い」です。これは1598(慶長3)年10月、明の董一元(とう・いちげん)率いる20万の大軍が義弘の守る泗川の城に攻めかかった戦いで、島津軍は1万の兵で守り抜き、20倍の兵力を擁する敵を撃退したのです。明軍の戦死者3万8000人といわれ、この後、義弘は敵方から、「鬼石曼子(おにしまづ)」と恐れられたといいます。

西軍で敗戦するも敵中突破

 義弘は1600年の関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成方に付きました。兄・義久ではなく、義弘の方に家督が回ってきたことで、秀吉に恩義を感じていたのかもしれません。ところが、西軍入りは兄・義久にとっては不満材料でした。この兄弟の亀裂は無視できないものがありました。

 この時点で島津氏の石高は56万石でした。これだけの石高だと、単純計算すれば、1万5000人くらいの兵の動員が可能です。しかし、関ケ原にはその10分の1のわずか1500人しか動員できなかったのです。領内に不穏な動きがあったことも理由の一つですが、まだ隠然たる力を持っていた兄・義久が豊臣嫌いで、義弘に心を寄せる兵しか関ケ原に動員できなかったのも大きな理由でした。

 さらに、9月15日の戦い当日、義弘にはかつて、「鬼石曼子」と恐れられた片りんはみられませんでした。どうも、戦う前から戦意を喪失していたようなのです。決戦直前に大垣城で開かれた軍議の席上、義弘の主張が石田三成によって拒否されたためといわれています。少し気難しいところがあったものと思われます。

 しかし、西軍の負けが決まった後の行動は実に見事でした。後ろに逃げるのではなく、何と、あえて正面敵中突破という方法を選び、徳川家康軍本隊めがけて突進したのです。すでに戦いの勝敗はついていたので、東軍の多くの将兵は「ここで戦って命を落としたら損だ」ということで道をあける形となり、そこを島津軍が駆け抜けたわけですが、兵の数が少ないことが分かってからは追撃されました。

 結局、1500人の兵のうち、薩摩まで戻れたのは義弘ら80人だったといわれていますが、この武勇を恐れたのか、家康はその後、薩摩を攻めることはせず、島津家は幕末まで南九州で勢力を保ち続けることになるのです。