新型コロナウイルス流行下においての葬儀の話は何やら、とんちんかんなことが多くあります。コロナ以降ずっと、「これからは葬儀のやり方が変わる」といわれていますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

 確かに変化はありました。例えば、人数制限による家族葬の増加、食事の簡略化、火葬のみの葬儀の増加などが挙げられます。大勢での会食や遠距離の移動も控えるよう求められています。ただ、これらは感染症の流行をできるだけ防ぐためのものです。 

 今は皆が「コロナが収まれば日常を取り戻せる」という希望を胸に耐えている状況です。今後、ワクチンが行き渡れば、次第に日常を取り戻していくでしょうし、治療方法が確立されれば、流行も収束していくでしょう。葬儀だけが、コロナが収まった後も変化したままというのは考えづらく、コロナ禍での特別な葬儀の対策は長い目でみれば、「なくなっていくもの」だと思うのです。

全て「無料の付加サービス」

「一度始まったことはこれから、みんなに受け入れられてずっと続く」。一部でそう主張されているものに、葬儀の様子をリアルタイムで配信する「オンライン葬儀」があります。

「コロナ禍では参列できないので、これからはオンライン葬儀の需要がある」と言い張る葬儀社もあるにはあります。マスコミもこぞって、「新しい葬儀の形」とオンライン葬儀を取り上げましたが、葬儀屋の立場から正直な話を言いますと、オンライン葬儀はそんなに流行していません。

 まず現状、オンライン葬儀はほぼ全て「無料の付加サービス」として提供されています。有料化してまで需要があるかといえば、それほどはないことが分かっているので、無料提供が当然になっているのです。スマホとSNSアプリ、Wi−Fi環境があれば一般の人でもできることに数万円の価格が設定されれば、「だったら自分でやります」となるのは容易に想像のつくことです。

 マスコミで取り上げられた当初より、筆者はプライバシーの観点から、オンライン葬儀の問題点を発信してきたのですが、反論の声も寄せられました。「新しいことにすぐ反対する」「IT的なことに老害葬儀屋はすぐ拒否反応をする」「やってみなければ分からないのに、新しい挑戦を押さえつけようとする」とお叱りを受けました。

 勘違いしてほしくないのは、筆者は個人的に気に食わないからオンライン葬儀を批判しているわけでも、「オンライン葬儀自体がよくない」と言っているわけでもないことです。具体的な問題点があるから、配信を行うならば、まずそこを話し合い、一定の節度を守るべきだと考えています。葬儀を撮影して配信するのなら、ちゃんと仕組みをつくり、故人のプライバシーに配慮した上で、遠方の人にも別れの時間を届けましょうというメッセージです。

 筆者が考えるオンライン葬儀の問題点は次の3つです。

【(1)公開範囲を適切にコントロールできていない】

 葬儀の生配信を手軽に視聴できるようにすると利便性が上がる半面、流出の危険性が高まります。逆に流出を防ぐために管理を厳重にすればするほど、配信を見るまでの手順が複雑になり、高齢者にとっては難しくなりかねません。「手軽さ」と「安全」のバランスはシーソーのようで、うまく両立させるのは難しいものです。

 オンライン葬儀の生配信にはZoom、YouTubeライブなどのツールを使う方法がありますが、一例としてYouTubeライブを使う場合の懸念について話してみようと思います。YouTubeライブでは、配信内容の公開範囲を誰でも検索・視聴できる「公開」、URLを知っている人だけが視聴できる「限定公開」、配信者本人と配信者が指定した人のみが視聴できる「非公開」から選んで設定します。

 オンライン葬儀では基本的に「限定公開」の設定を使用します。安全に思われる設定ですが、もし、そのURLをブログに張ってしまったり、ウェブサイトに埋め込んで見られるようにしたりする人がいれば、検索結果にも出てしまい、「限定公開」の意味がなくなり、もはや「公開」と変わりません。

 また、公開範囲の設定は途中でも変更できますが、一度でも「公開」設定にしてしまえば、YouTube内の検索などで視聴できてしまうため、最初から「限定公開」に設定しておかないと意味がないのです。

プライバシーへの配慮は?

【(2)プライバシーへの理解不足】

 ここでの「プライバシー」は故人と参列者、両方に対してのものです。葬儀はもともと、私的・公的が入り交じる行事であり、繰り返し見ることを意図して演出されたものでもなければ、その場にいない誰かに見られることを想定したものでもありません。

 例えば、祖母の葬儀に参列し、涙が止めどなくあふれてしまい、鼻水と涙で顔が赤くなったところを生配信されたいと思う人はいるでしょうか。泣くこと自体は十分あり得るでしょうが、それを生配信されたいか公開されたいかと聞かれれば、皆さんも考えてしまうと思います。

 また、参列者全員の行動をコントロールすることは難しいです。例えば、弔辞などお別れの言葉を述べるときに故人の死因や病歴に触れてしまい、近しい遺族や故人の思いに反して“公開”されてしまうことも起こり得ます。守るべきものが守られないのは、プライバシーの観点からみても問題があるということです。

 私たちが生きているこの現代社会は、さまざまな問題と向き合ってきた歴史そのものです。その中には、特定の病気による差別や不当な偏見もありました。そして、「死因や病歴を公開するのはプライバシーの観点から熟慮に値することだ」との認識を共有することで、不当な偏見や行為が少しでも減るようにと先人は努力してきたのです。

 もし、公にされたくない死因や病歴が何かの拍子に“公開”されてしまったら、配信者である葬儀社はどんな責任を問われるでしょうか。法的な責任がなかったとしても道義的な責任は発生します。「どう責任を取るんだ」と聞かれて、「そんなことが起こるなんて思いも寄りませんでした」と言っている光景が目に見えます。

【(3)生配信の危うさ】

 生配信というのは何が起こるか分からないもので、極端な話、喪主や僧侶が転んで頭を打ってもん絶しても、それがそのまま配信されてしまうのです。

 撮影範囲が広い場合は、たとえ気を付けていても、お別れのシーンで遺体の顔が映り込んでしまう可能性も否定できません。それが生配信中なら、「故人の死に顔を見せたくない」と思う遺族にとっては非常に不快であり、悲しい出来事になってしまいます。

 筆者としては生配信にこだわることなく、葬儀の撮影を行った後、喪主の責任で「公開してよい部分のみ」を公開すればいいのではないかと考えます。そうすれば少なくとも、遺族の心情は守られた形での公開になるはずです。

「遠方の人ともお別れを共有しよう」という試み自体は非常に温かいもので、可能性があるものです。しかし、だからといって問題点を議論することなく、「新しい試みなんだから批判するな」と言うのはいささか乱暴な意見で、その試みが本当に価値のあるものとなるように考えていくべきでしょう。

 どこまでの範囲の人に、どんな内容を、どのように伝えるのか。それがオンライン葬儀に大切な「コントロール」という概念なのだと思います。