蒲生氏郷(がもう・うじさと)は1556(弘治2)年、近江国(滋賀県)日野城主・蒲生賢秀(かたひで)の長男として生まれています。父・賢秀は南近江の戦国大名六角義賢=出家して承禎(じょうてい)=の重臣でした。賢秀の「賢」は主君・義賢の名前を1字与えられたものです。

 1568(永禄11)年9月、織田信長が足利義昭を擁して上洛(じょうらく)の軍を起こしたとき、六角承禎は信長に抵抗しましたが、賢秀は信長に従い、13歳の子の鶴千代を人質として信長のところに差し出しました。この鶴千代が氏郷です。通説では人質といわれていますが、小姓として採用されたのではないかともいわれています。

東北一の大名に

 信長は氏郷の聡明(そうめい)さが気に入り、翌年、伊勢攻めに従軍させた後、氏郷に自分の娘を嫁がせています。つまり、氏郷は信長の女婿として将来を嘱望されることになったのです。実際、その後の信長の戦いにはほとんど従軍しています。

 ところが、1582(天正10)年6月2日の本能寺の変で、信長が明智光秀に討たれてしまいましたので、その後は羽柴(豊臣)秀吉の下につくことを余儀なくされます。1584(天正12)年、徳川家康と織田信雄が手を結んで秀吉と戦った小牧・長久手の戦いのときも、秀吉軍の一員として戦功をあげ、その論功行賞として伊勢松ケ島で12万石を与えられています。その後、居城を松坂に移しています。

 それからも、秀吉の紀州攻め、九州攻めなどに従軍し、1590年の小田原攻め後には、会津若松城(福島県会津若松市)42万石に封ぜられ、その後、加増されて73万石、さらに文禄総検地の結果、92万石となっています。これは徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家に次ぐ高禄(こうろく)で、もちろん、東北地方一の大名ということになります。

 一説に、氏郷を東北に送り込んだのは、秀吉が自分のライバルになりそうな氏郷を遠くに追いやったからだともいわれますが、そうではなく、伊達政宗の動きを警戒し、政宗と徳川家康との間にくさびを打ち込んだというのが実際のところだったようです。

病に勝てず早世

 このとき、居城とした会津若松ですが、それまで「黒川」といっていたのを、氏郷が故郷・近江の日野にあった綿向(わたむき)神社の「若松の森」にちなんで命名したといわれています。

 氏郷はそれまでにも、商品流通活動が盛んな伊勢で、松ケ島、さらに松坂で城下町をつくっていました。その経験を生かし、会津若松を「奥州の都」とすべく、町づくりに臨んでいます。注目されるのはその都市計画の新しさです。

 それまでの一般的な城下町は武士の住む侍屋敷の部分と、商人や職人の住む町屋の部分は明確に分かれていませんでした。混在だったのです。それを武家町と町人町に分け、しかも、町人町は同業者が集まるように都市計画がなされました。これを「士庶別居住区分」などと呼んでいます。

 もう一つは商人・職人の住む町人町、すなわち、商業地区の街路を十字路にしたり、道幅を広くしたりした点です。城下町は敵からの攻撃を防ぐ防御の観点から、食い違いや丁字路、さらに道幅を狭くするのが普通でしたが、氏郷は「商品流通経済の発展にとって、道路は大動脈となる」という考え方を持っていたのです。

 しかし、そんな先進的な考えを持っていた氏郷も病気には勝てませんでした。1595(文禄4)年2月7日、40歳の若さで亡くなってしまいます。「秀吉が、将来、自分の対抗馬になりそうな氏郷を毒殺した」という説もありますが、あくまで俗説です。