本能寺の変後の激動期に名を残した清水宗治は、1537(天文6)年の生まれです。備前と備中の国境付近を領する小戦国大名・石川久孝に仕え、その娘を娶(めと)っています。その石川久孝の居城が備中高松城(岡山市)でした。

「備中一国」の誘いを拒絶

 ところが、久孝が没し、その跡継ぎも相次いで没する事態となり、宗治が城主となったわけですが、その頃には西から、毛利輝元の力が伸びてきていて、小戦国大名として自立するのが困難な状況になっていました。そこで、宗治は、毛利輝元の叔父で毛利軍の山陽方面をまとめつつあった小早川隆景の幕下に属すことになり、そのまま、高松城の守りを任されています。宗治が高松城主となった頃、東から、織田信長の力も伸びてきました。織田軍の中国方面軍司令官だったのが羽柴秀吉、後の豊臣秀吉です。

 それに対し、毛利側は高松城を中心に、備前・備中の国境線に位置する7つの城を防衛ラインとする戦略を立てます。これが「境目(さかいめ)七城」と呼ばれるもので、北から、宮路山城、冠山城、高松城、鴨城、日幡山城、庭妹城、松島城の7つです。毛利側も、近くを山陽道が通る高松城が秀吉勢の攻撃を受ける可能性が大きいとみて、援軍を送り込みました。その数は正確には分かりませんが、城を守る兵の総数は5000に膨れ上がったといいます。

 そして、いよいよ、1582(天正10)年4月、秀吉は2万を超す大軍で「境目七城」の各個撃破にかかり、25日には冠山城が落ち、5月2日には宮路山城も落ちています。秀吉は各個撃破を進めるとともに調略を始め、高松城主清水宗治には「降伏すれば備中一国を与える」と誘っていますが、宗治はこれを拒絶しました。こうなると、秀吉としても、高松城攻めをせざるを得なくなります。

 冠山城や宮路山城は力攻めで落とせましたが、高松城は力攻めでは難しいと判断し、秀吉はすぐ、水攻めの準備にかかりました。城が低湿地に築かれており、力攻めでは味方の損害が大きいとみたのと地形を考え、近くを流れる足守(あしもり)川を堤防でせき止めれば、城を水没させられると考えたためです。ちょうど、梅雨時ということもあり、日に日に水かさが増し、高松城は水没寸前の状態に。急を聞いて後詰(ごづめ)に出てきた吉川元春、小早川隆景も手が出せないでいました。

 こうした状況のもと、講和交渉も始められましたが、領土割譲と城主・清水宗治の処遇を巡って、交渉は暗礁に乗り上げていました。毛利輝元が「宗治を切腹させるわけにはいかない」と拒絶していたからです。

本能寺の変で急転

 そのような状況の中、6月3日夜、秀吉のもとに本能寺の変の第一報が届けられます。秀吉は信長の死を隠したまま、毛利側の使僧・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)を呼んで、それまで示してきた領土割譲の条件を緩めるとともに「城主・清水宗治が切腹すれば、城兵の命を助けよう」と持ち掛けています。その話を聞いた宗治は自らの判断で自刃を決めたといいます。

 翌4日、秀吉方から、森高政が人質として毛利側に送られ、代わりに毛利側からは小早川秀包(ひでかね)と桂広繁が秀吉のもとに送られてきました。同日正午すぎ、湖状態となった高松城から、宗治が舟で秀吉陣所近くまでこぎ寄せ、そこで自刃しました。この後、秀吉はすぐ、堤防を壊させ、約束通り城兵の命を救っていますので、宗治の自刃は見事な責任の取り方だったといっていいと思います。辞世とされるのが次に挙げる歌です。

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の
名を高松の 苔(こけ)に残して

 この歌が実際に宗治が詠んだものという確証はありませんが、いかにも宗治らしい思いが伝わってきます。