上杉景勝は1555(弘治元)年、越後坂戸城主・長尾政景の次男として生まれています。母が上杉謙信の姉・仙桃院(せんとういん)ですので、謙信のおいにあたります。

謙信後継の地位、勝ち取る

 1564(永禄7)年、喜平次と称していた景勝が10歳のとき、父・政景が舟遊び中に溺死してしまい、謙信の招きで、母、および姉妹とともに春日山城(新潟県上越市)に移りました。それ以前から、子どもがいなかった謙信は景勝をかわいがっていて、習字の手本を与えるなどしていたのですが、ここで謙信の養子に迎えられています。景勝の兄はその前に亡くなっており、謙信の後継者の資格を得た形です。

 養子が景勝一人であれば問題は起きなかったのですが、謙信はどういうわけか、あと2人、景虎と政繁という子も養子にしていました。景虎は北条氏康の七男で、「越相同盟」が結ばれたとき、人質として送られてきた者だったのですが、同盟が破綻した後も、養子として越後にとどまっていました。

 もう一人の政繁は、能登の畠山氏からの人質だった者を養子にしていました。ただ、この政繁は上杉一族の上条(じょうじょう)上杉家を継いでいましたので、その後に起きる家督争いには関係していません。1578(天正6)年3月13日、謙信が亡くなったとき、謙信は景勝、景虎のどちらに家督を譲るか言明していませんでした。ここにおいて、2人の養子同士の家督争いとなります。御館(おたて)の乱です。

 この御館の乱では、春日山城を占拠した景勝側が有利に戦いを進めました。それは景勝が春日山城の金蔵を押さえ、謙信がためていた軍資金を手に入れることができたからです。景勝はその軍資金を使って、甲斐の武田勝頼を味方に付けることに成功し、翌年3月17日、景虎がこもる御館を攻め、24日、景虎を鮫ケ尾城に追い詰め、自害させています。

 こうして、家督を継いだ景勝ですが、謙信死後、織田信長の軍勢が加賀、能登から越中に侵攻し、1582(天正10)年6月3日には越中の魚津城も落とされています。まさに絶体絶命のピンチでしたが、6月2日の本能寺の変で救われました。信長とは敵対し続けた景勝でしたが、信長死後、後継者として浮上してきた羽柴秀吉、すなわち、豊臣秀吉には臣従する形となり、最終的には越後、佐渡、信濃の一部、出羽の一部を合わせ90万石の大名となり、小早川隆景没後、五大老の一人にもなっているのです。

120万石に加増、家康と対立

 1598(慶長3)年、景勝は秀吉の命令で、それまでの春日山城から会津若松城(福島県会津若松市)に移ることになりました。90万石から120万石への加増なので栄転ですが、実はこのことが関ケ原の戦いにつながるのです。石高が増えたので、浪人を雇い入れたり、武具を調達したり、さらに居城の新規築城などの軍備強化を推進したわけですが、これが近隣の大名たちには脅威となったのです。

 不安を訴える声が徳川家康の耳に届き、家康から景勝に上洛(じょうらく)命令があったにもかかわらず、景勝はそれを無視しました。このとき、景勝の執政だった直江兼続が上洛命令を批判する返書を書いています。有名な「直江状」です。もちろん、景勝の意向を踏まえたものです。

 その結果がご承知の通り、家康による上杉攻めとなります。家康が豊臣大名を率いて東国に下った留守をついて、石田三成が挙兵し、関ケ原の戦いとなりました。関ケ原で西軍が負けたため、景勝はそれまでの120万石から30万石に減らされてしまいましたが、家康に対してさえ容易に屈しなかった生き方は見事といっていいでしょう。