「〇〇が食べた〜い!」

 一昔前はテレビでしたが、今ではスマホにも食関連の情報があふれています。

 帰宅途中には、あちらこちらの家からこぼれてくるおいしい「におい」におなかが空いて、なんてこともありました。住宅の性能が上がり、そういう「におい」を嗅ぐこともめっきり減りました。

 食べ物が24時間手に入り、家族団らんの食事風景も過去のものになりかけています。
 作ることより、買って済ますことが当たり前になっています。
 コロナ禍で外食は減りましたが、宅配での食事が増えているように感じます。

 そんな中、ふと思い出すのは、「家の味」。 忘れられない味。 きっと誰にでもあると思います。
 私の中では、この二つ。

 ばあちゃんの「むかごの甘辛煮」と、おふくろの「ひき肉そぼろ」。 二つとも自分でも作りますが、同じ味にならないのです。 「なぜなんだろう。こんな感じだったけど、微妙に違うなあ」と、作る度に首をかしげてしまいます。

 これって、もしかしたら、単なる食べ物の味ではなく、家の中の風景や家族との思い出や、自身の環境すべてが溶け込んでいる「記憶」の味なのか。「郷愁」といった感じの・・・。

 確かにそれらを食べていた頃と今とでは、自分も年を取ったし、味覚も含めて変わってしまったのか。
 「もう二度と味わえないのかなあ・・・」と残念に思いながらも、チャレンジは終わりません。
 私は、専業ではありませんが、主夫でした。

 男の子3人をワンオペで育ててきました。 3食作るわけですが、特に意識していたのは昼食です。 中学校は給食がなく、基本、家からの弁当でした。 高校は弁当なので、子どもたちの弁当は、中高6年間作ってきました。

 父親が作るので、思春期の子どもたちの弁当には気を使いました。 もちろん凝ったことはできませんが、栄養や見た目(色合い)、好みは意識してきました。
 重なる年は毎朝3人分の弁当作りです。 冷凍食品も多用しましたが、手作りを必ず一つは入れようと自身にノルマを課て・・・。

 本当に全部食べてくれていたのかは分かりませんが、残してきたことは一度もありませんでした。 カラの弁当箱が毎日うれしかったのを覚えています。 10年以上作っていましたが、つらいとか大変だとか思ったことがなかったのが、今思うと不思議です。 楽しいとも思っていませんでしたが。

 長男は中高通じて学校から呼び出されたのは1回だけでしたが、次男、三男は何度となく呼び出され、先生方に頭を下げてきました。 でも、家では家事に協力してくれたり、犬の世話をしてくれたり、毎日「ありがとう」という言葉が自然と出ていた、そんな生活でした。 今思うと、父親一人で育てていることに、彼らなりに何か感じてくれていたのかもしれません。 胃袋を押さえていたことが大きかったのかなとも思っています。

 そんな子どもたちも、それぞれ家を出て独立して生活しています。二人は結婚して、家庭料理も食べています。

 ここでちょっと気になっていることが、「家の味」です。 彼らは、「家の味」を、果たして覚えていてくれているでしょうか。 これが「おやじのめし」で一番好きだったな、とか。

 私の食(手料理)は、おそらく全般的に、「ばあちゃん」から「おふくろ」へと、つながってきたものがベースになっているはずです。

 外食はあまりしませんでしたから、なんだかんだといつも家で作っていましたし、作っている姿や味は覚えてくれているかなあ。 男の子3人ですが、食(味)がつながっていてくれたら、そしてさらに、これから生まれてくるであろう子どもたちにつなげてくれたらいいな、と密かに願っている、そんな風に年を取った自分が不思議でなりません。

 藤井孝生(ふじい・たかお)
 1962年生まれ。横須賀市職員。教育委員会で食教育や学校給食などの業務に従事していた時、竹下先生の「弁当の日」と出会う。それを機に市内の小中学校にもこの取り組みを紹介してきた。その後、総務部長を経て定年退職。現在は市職員の福利厚生に取り組んでいる。

 #弁当の日応援プロジェクト は「弁当の日」の実践を通じて、健全な次世代育成と持続可能な社会の構築を目指しています。より多くの方に「弁当の日」の取り組みを知っていただき、一人でも多くの子どもたちに「弁当の日」を経験してほしいと考え、キッコーマン、クリナップ、クレハ、信州ハム、住友生命保険、全国農業協同組合連合会、日清オイリオグループ、ハウス食品グループ本社、雪印メグミルク、アートネイチャー、東京農業大学、グリーン・シップとともにさまざまな活動を行っています。