みもすそ川公園(山口県)に設置されている平知盛と源義経像

武士でありながら貴族化してしまったといわれる平家一門。しかし、敗北必至となるなかにおいても、武人としての矜持を失わず、最期の輝きを放った男たちがいた。

※本稿は、「歴史街道」2022年5月号より、一部を抜粋編集したものです。

【中丸満PROFILE】
昭和47年(1972)、広島県生まれ。出版社、編集プロダクション勤務を経て著述業。日本の古代・中世史を中心に書籍や雑誌、ムックなど幅広く執筆活動を行なっている。著書に『平清盛のすべてがわかる本』『源平興亡三百年』『鎌倉幕府と執権北条氏の謎99』、共著に『よくわかる平清盛の真実』などがある。


質実剛健の源氏、文武兼備の平家

富士川の戦いの直前、斎藤実盛は平家軍の司令官である平維盛の諮問に応じて、東西の武士の違いを次のように述べたという。

「東国武士は親や子が死んでもそれを乗り越えながら戦うが、西国武士は親が死ねば供養を行ない、子が死ねば嘆き悲しんで戦うのを止める」

「西国武士は兵糧米がなくなると次の収穫まで合戦を延期するが、東国ではそのようなことはない」

これを聞いた平家の武将たちは怖気づき、水鳥の羽音に驚いて敗走する失態を招いたことが『平家物語』に記されている。

東国武士の精強さを示す言葉として知られるが、平家滅亡という歴史的事実を踏まえて、平家軍の敗北を予感させる伏線の役割を果たしており、実盛の発言そのものは物語の虚構といわれている。

平家といえば、武士でありながら貴族化したため、質実剛健の東国武士に倒されたといわれることが多い。だが、こうしたイメージは実盛の逸話にもみられるように、『平家物語』によって誇張され流布した部分が大きい。

特に、長編の読み本系の『平家物語』は、東国の史料に基づいて源頼朝や御家人たちの動向を詳しく描いている。必然的に東国武士の武功や勇猛さが強調されることとなり、源平の武士像の形成に大きな影響を与えたといわれる。

確かに、平家一門には勅撰歌人でもあった平経盛や忠度、琵琶の名手の経正、舞に堪能な維盛、高僧とあがめられた忠快や源智など、文事や芸能に才能を発揮した人が多い。

しかし、そのことは、平家が武士であることを忘れて享楽的に生きたことを示すものではない。和歌や管弦は宮廷社会で認められるために必須の素養であり、貴族的な教養を磨くことが、平家にとって生き残りをかけた戦いでもあったのである。

しかし、どれだけ宮廷社会における地位や名声が高まろうとも、武芸を家業とする武士の家に生まれた誇りや使命感を、平家の人々が忘れたとは思えない。

ひとたび寺社の強訴が起これば、内裏防衛の最前線に立ったのは平家だった。内乱が始まるや、大軍を引き連れて東奔西走し、華々しく討ち死にを遂げた男たちがいた事実にも、それが示されている。


平忠度...武芸にも歌道にも優れた大将軍

もちろん個人の武勇という点では、自力救済の社会で実力を磨いてきた東国武士が勝っていたかもしれない。しかし、一流の文人でありながら、武勇においても名を残した平家の公達は少なくなかった。

文武兼備の平家一門として、真っ先に挙げられるのは薩摩守忠度だろう。忠盛の六男で清盛の末弟にあたり、紀州熊野で生まれ育ったという。母は鳥羽院の御所に仕える女房で、忠盛との関係をからかった同僚を、巧みな和歌であしらった逸話が『平家物語』に見える。

父母から和歌の才を受け継いだ忠度は、当代一の歌人であった藤原俊成に師事した。

子弟の親密な関係は、平家都落ちの際の逸話にもうかがえる。

京を退去する途中、忠度は俊成邸を訪れて自作の和歌を書きつけた巻物を託し、勅撰集への入集を懇願した。平家滅亡後、俊成が『千載和歌集』を編纂する際、巻物を見ると優れた歌が多かった。

しかし、平家が朝敵とされていたため「読み人知らず」として「さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」の一首だけが採用されたという。

武人としても優れた資質を備えていた忠度は、富士川の戦いや墨俣合戦、北陸遠征など各地を転戦。一ノ谷の戦いでは須磨方面の大将軍を務めたが、武運つたなく敗北する。

敗走の際、忠度は取り乱すことなく、追いすがる敵を蹴散らしながら馬を走らせた。やがて武蔵の武士・岡部六弥太忠澄に追いつかれたが、忠度は熊野の山野で鍛えた「大力の早わざ」(怪力で動きが俊敏な様子)で、たちまち敵を組み伏せた。

しかしその直後、背後から駆けつけた岡部の従者に右腕を斬り落とされる。観念した忠度は片手で岡部を投げ飛ばし、西に向かって念仏を唱えながら首を落とされたという。人々は「武芸にも歌道にも優れた大将軍だった」といい、敵も味方も涙を流したと『平家物語』は伝えている。