※本稿は、大村大次郎著『土地と財産」で読み解く日本史』より、一部を抜粋編集したものです。


信長、秀吉よりもはるかに莫大な資産を持っていた家康

日本史上で“最大の資産家”は誰になるだろうか?

もちろん貨幣価値や土地の値段などは、時代によって大きく変わるので、正確な判定は難しい。が、大雑把に土地や資産などの所有関係を見たとき、もっとも財産を持っていた人物は、徳川家康だといえる。

まずは家康が、戦国武将としてどのくらい経済力があったのか、信長、秀吉と比較してみたい。

徳川家康というと、信長や秀吉に比べれば、経済的には地味なイメージがある。

諸大名や家臣に金の大判小判を振る舞った秀吉や、全国の茶器の名品を買い漁った信長の方が、金を持っている印象がある。

もちろん、信長や秀吉が健在の時点では家康よりもはるかに資産を持っていたことは間違いない。家康は、まだ一地方の領主にすぎなかったからだ。

だが、彼らが死んだ後、家康がため込んだ資産というのは、我々の想像をはるかに超えるものなのである。

「領地」だけを比較しても、家康は他の二人を圧倒している。

前述したように豊臣秀吉は、直轄領は二百二十二万石しかなかった。秀吉の存命中に徳川家康はすでに二百五十万石を領しており、また「関ケ原の戦い」「大坂の陣」の後には、四百万石を持つことになった。家康の圧勝である。

また信長と比べても同様である。信長の死の直前に、信長が勢力範囲としている地域は、だいたい四百万石くらいだった。しかし、この四百万石は家臣たちの所領も含めたところである。前述したように信長の場合は「直轄領」と「家臣領」の明確な線引きがなかった。所有関係で見るならば、「直轄領」と「家臣領」の間のようなものといえる。

家康の場合は、大坂の陣以降は、直轄領だけで四百万石あり、徳川家勢力全体では八百万石あった。

これも家康のほうがかなり分がいいといえるはずだ。

土地以外の資産を見た場合も、家康の方がかなり大きい。

信長や秀吉は、勢力圏内の主な金山、銀山を直轄地にしていたため、金、銀を大量に入手したことが知られている。信長は金の貨幣のようなものをすでに製造していたとみられ、秀吉の場合は、金の大判小判を実際に製造していた。

が、家康は信長、秀吉の金銀政策をすべて踏襲し、しかも「全国統一の後」に全国の主な金山、銀山をすべて直轄地としたために、日本中の金銀を手中に収めることになったのである。信長も秀吉も、日本の主要鉱山のかなりの部分を押さえていたが、家康ほど包括的に押さえていたわけではない。

戦国時代から江戸時代前半は、良質な金銀の鉱山が相次いで開発された時期であり、日本でもっとも金が採れた時代でもあった。家康は、その大量の金をできるだけ、自家にため込んだ。

家康は、「大法馬金」という金塊を大量に残していたことが知られている。

大法馬金というのは、幕府が蓄財していた運動のことで、金の大判2000枚でつくられ、一個あたり約300キロあった(150キロという説あり)。

家康はこの大法馬金を大量につくらせ、江戸期前半の万治年間には126個もあったという。金の大判一枚の金の含有量はだいたい165gなので、純金にして約42トンということになる。

現在、日本銀行が保有している金が、800トン前後である。

今から400年前の戦国時代に42トンの金を保有していたというのは、相当の財力だったといえるだろう。

42トンの金は、現在の時価相場に換算しても約2000億円である。当時は、世界の金の保有量が現在よりもはるかに少なかったので、相対的な金の価値は現代よりも高かったはずである。それを考慮して家康の資産額を現代価値に換算すると、想像もつかないような金額になるはずだ。


蘇我氏、藤原氏、平清盛と比べるてみると?

次に戦国武将だけではなく、全時代を通じての歴史上の資産家と家康を比較してみよう。

日本史を通じて、主な資産家は、蘇我氏、藤原氏、平清盛あたりとなる。

大和朝廷時代は全国の土地を公有地にしたので、当時の天皇家も資産を持っていたように思われるかもしれないが、前述したように当時は公的な資産と天皇の資産は、明確に区分されていた。国自体(朝廷自体)はほぼ全国の土地を直轄していたがそれは「公地」とされており、天皇家の土地ではなかった。天皇の私資産は「官田」や「勅旨田」だけだった。そして「官田」や「勅旨田」はそれほど広くなかったのだ。

では家康以外の蘇我氏、藤原氏、平清盛らの資産を順にチェックしてみたい。

蘇我氏の所有していた「田荘」の明確な広さはわかっていない。が、奈良時代は、まだ東北や九州には蝦夷地と呼ばれる日本領ではない地域がかなり残っていた。また農地の開発も、まだそれほど進んでいなかった。それを考慮した場合、家康の四百万石には到底及ばないと考えられる。

次に藤原氏との比較である。藤原氏も日本各地の荘園を寄進され、日本全国に「領地」があった。が、藤原氏の最盛期においても、藤原氏の荘園よりも、寺社の荘園の方が広かった。また藤原氏の荘園は、実際の所有者は他にいるが、藤原氏の名義だけを借りているというケケースも非常に多く、藤原氏には土地の収益のほんの一部が手数料的に入るだけだった。それを考えると、これも家康の四百万石には遠く及ばなかったものと考えられる。

最後に平清盛との比較である。

平清盛は、最盛期には日本全国の半分以上にあたる三十数か国を一族が知行板という記録がある。が、この知行というのは、まだ平安時代の朝廷システムの中の「国司」という官職を与えられただけである。国司は、その土地の徴税、行政を任されてはいるが、その土地を私有しているわけではなく、朝廷に対して納税などの義務を持っている。だから、この知行地は、平清盛の財産とまではいえない。

またこの三十数か国の知行地を持っていた時期というのは、平清盛がクーデターを起こし、後白河上皇を幽閉した後から平家滅亡までの一時期のことであり、ほんの数年程度のことである。安定して手中にしていたとは言い難い。

平清盛は、知行地のほかにも、全国に500か所に及ぶ広大な荘園を持っていたとされ、また大規模な日宋貿易を行なうことによって巨万の富を得たとされている。が、平清盛が保有していた荘園の大半は、実際には豪族たちが管理しており、清盛自身が大きな収益を得ていたわけではなかった。

平清盛の荘園が、実質的にはそれほど広くなかったということは、兵の動員数を見ればわかる。領地というのは、兵の供給源でもあり、「本当に広い領地」を持っているならば、兵の動員数も多いはずだからだ。

源平合戦のときの兵の動員数は、せいぜい数万規模であり、多く見積もっても10万には達していない。

が、家康の場合、大坂の陣では徳川家だけで20万近くの兵を動員している。これを見ても、家康の方が実質的な領地は広かったといえるだろう。

また平清盛が日宋貿易で大儲けしていたのと同様に、家康も南蛮船との貿易を独占し、日本中の金銀の鉱山を直轄にしたことで莫大な財を築いた。平清盛の土地以外の資産がどれほどだったのか明確な数値は測りようがないが、家康の126個の大法馬金を見たとき、これもやはり、家康の方に分があるといえるだろう。

ちなみにこれほどの資産を持っていながら、家康は終生において倹約家だった。

天下を獲ってからも、食事は麦飯などの粗食を好み、冬でも足袋を履かず、親族や家臣の浪費を戒めたという。

また126個の「大法馬金」には「行軍守城用勿作尋常費」(戦費以外に用いるな、という意味)」の文字が鋳込まれていた。つまり家康は、自分の死後、徳川家を脅かす戦争が起きたときのために、この「大法馬金」を準備していたのである。

しかし、やはり江戸時代の太平が続く中で、家康の子孫たちも気が緩んだと見え、大きな戦争も起こっていないのに、大法馬金がどんどん減っていった。

天保年間には26個になり、慶応年間にはわずか1個に激減していた。

せっかく、家康が軍資金のために用意していた大法馬金だが、徳川家存亡の危機の幕末にはほとんど消滅していたのである。が、最後の1個は、江戸城開城のときに勝海舟に持ち出され、徳川家の再興のために使われたのである。

逆にいえば、家康の残した財力によって、江戸時代が250年以上も続いたともいえるのだ。