明智光秀との本当の関係

藤孝と光秀の邂逅については一次史料がなく、後世の編纂物の『綿考輯録』や『明智軍記』などの記述を頼るしかない。仮に、光秀が越前に滞在していたとするならば、二人が出会ったのは、藤孝が義昭とともに越前を訪れた永禄9年末以降のことになる。

『光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚』によると、藤孝は室町幕府の御供衆に列していた。軽輩の足軽衆の光秀よりも、はるかに身分は高い。

光秀は藤孝と会うなり、「このまま越前にいても朝倉氏は当てにならない。尾張・美濃を領する織田信長は今にも近江を併呑する勢いである。信長を頼るべきである」と述べ、熱心に勧めたという(『綿考輯録』)。光秀は諸国を回遊して情報収集をしており、あらゆる情報に通じていたようだ。

この逸話を見る限り、当時、朝倉氏の厚い信任を得ていた光秀は、藤孝と対等の関係にあったかのような印象を受ける。しかし、光秀の死後の諸記録によると、決してそうではなかったようだ。

奈良興福寺多聞院主・英俊の日記『多聞院日記』天正10年(1582)6月17日条には、「光秀は細川藤孝の中間だったのを信長から引き立てられた。光秀は中国征伐(毛利氏征伐)の際に、信長の厚恩により派遣された。しかし、光秀は信長の大恩を忘れ、曲事(けしからんこと。この場合は信長を急襲したこと)をしでかした。天命(光秀が横死したこと)とはこのことだ」と書かれている。

この記述を見ると、光秀は藤孝の中間だったという。中間は侍身分のなかでも、さまざまな雑務を担う下層に属していた。光秀は土岐明智氏の出身であったといわれているが、考えられないほどの低い身分だ。

英俊は光秀の中間という身分について、明確な根拠をもとに書いたわけではないだろう。当時の人々の間では、光秀はもともと藤孝の中間だったという風聞が流れていたので、それを書き留めたに過ぎないと思われる。

『遊行三十一祖京畿御修行記』(時宗の僧・同念の旅行記)という史料により、光秀が越前で牢人生活を送っていた可能性は高いとされるが、朝倉氏の家臣であったかは疑問が残る。

藤孝が光秀と越前で邂逅したこともまた、十分な史料的な裏付けがないので、はっきりとしたことは言えない。

信長に感謝された藤孝の行動

永禄11年(1568)9月、信長は義昭を擁して入洛する。こうして義昭の望み通り、晴れて室町幕府は再興されたが、やがて信長と義昭は路線をめぐって対立。元亀4年(1573)2月、ついに義昭は信長に対して挙兵したが、信長の圧倒的な軍事力に屈した。

結局、義昭は紀伊などに逃亡しつつ、天正4年(1576)に毛利氏を頼って、備後鞆(広島県福山市)に移った。

義昭には、藤孝の離反という大誤算があった。元亀4年2月23日、信長は藤孝に書状を送り、義昭の動向について何回も種々の情報を提供してくれたことに礼を述べた(「細川家文書」)。

提供した情報の中身は不明であるが、おそらく義昭の考えや決別後の予定・計画といったトップ・シークレットは、藤孝から漏れていたに違いない。それは、義昭のほかの家臣らも知らなかったのだから、衝撃は大きかっただろう。

同年7月、藤孝は一連の功績を信長に認められ、桂川西地の一職支配を認められた。長岡姓を名乗ったのも、この年である。

その後、藤孝は信長のもとで各地を転戦し、天正8年(1580)には丹後国を与えられて入国。また、その2年前には子の忠興の妻として、光秀の娘ガラシャを迎えていた。ここまでは順風満帆だったが、天正10年6月2日に本能寺の変が勃発し、窮地に陥 ったのである。

信長を謀殺した光秀がもっとも頼りにしたのは、藤孝・忠興父子である。先述のとおり、忠興は光秀の娘ガラシャを妻として迎えていたのだから当然だろう。

本能寺の変の7日後、光秀は三ヵ条から成る覚書を送った(「細川家文書」)。内容は次のとおりである。

1)光秀は藤孝・忠興父子が髷を切ったことに対して、最初腹を立てていたが、改めて二人に重臣の派遣を依頼するので、親しく交わってほしいこと。

2)光秀は藤孝・忠興父子に摂津国を与えようと考えて、上洛を待っていた。ただし、若狭を希望するならば、同じように扱うので、遠慮なく申し出てほしいこと。

3)光秀が信長を殺したのは忠興を取り立てるためで、それ以外に理由はない。五日百日の内には、近国の支配をしっかりと固め、それ以後は明智光慶と忠興にあとのことを託し、光秀は政治に関与しないこと。

とにかく、光秀の「味方になってほしい」との強いメッセージを読み取ることができる。

問題は3)であり、光秀は一連の行動は娘婿の忠興のためであったと話をすりかえ、畿内を平定のうえは政治から退き、子の光慶と忠興にあとのことを任せると言い訳をしている。

味方が少なく窮地に追い込まれた光秀は、何が何でも藤孝・忠興父子を味方に引き入れなくてはならなかった。光秀には政権構想や政策もなく、変後にあたふたとしている様子がうかがえる。