本能寺の変も、関ケ原も…

結局、光秀のクーデターは失敗。羽柴(豊臣)秀吉に討たれた。

変後、ガラシャは、謀反人の光秀が父だったことを憚り、夫の忠興によって、味土野(京都府京丹後市)に幽閉されたという。しかし、近年になって、ガラシャが幽閉されたのは丹後味土野ではなく、丹波国船井郡三戸野(京都府京丹波町)が妥当であろうとする新説もあらわれている。

その後の藤孝は秀吉に仕え、子の忠興とともに各地を転戦した。天正15年(1585)の九州征伐後、薩摩島津氏の仕置きにもかかわった。この間、秀吉から山城、大隅に所領を与えられ、近侍して寵を受けた。

ところが、秀吉は慶長3年(1598)8月に死去。子の忠興ともども、徳川家康に接近するようになった。忠興は石田三成と対立しており、当初から家康派だった。

2年後の5月29日、藤孝は京都を発ち、丹後田辺城(京都府舞鶴市)へ下向した。毛利輝元と石田三成が決起したのは、その約一ヵ月半後のことで、藤孝は子の忠興ともども東軍に属して戦う。

同年7月、藤孝は丹後田辺城にわずか5百人という手勢だけで籠城した。

忠興の弟・幸隆と従兄弟の三淵光行が城に残ったものの、忠興は会津の上杉景勝討伐に従軍し不在。ガラシャは大坂の細川邸に留まっていたが、西軍の人質になることを拒否して死を選んだ。

同年7月19日、田辺城は西軍の軍勢に囲まれた。西軍の面々は丹波・但馬の諸大名を中心とする1万5千という大軍だった。

藤孝は少数ながらも西軍の攻撃をよく防いだが、それには大きな理由があった。当時、包囲軍の中には和歌や連歌に関心を持つ武将が多く、藤孝の弟子も存在したといわれている。彼らは師の藤孝を討つことを憚り、手心を加えたといわれている。

そもそも、田辺城攻撃に参加した西軍の諸将は、三成に命じられて、しぶしぶ従った可能性がある。逆らった場合は、逆に討伐される可能性があるからだ。

戦後、小野木重勝などの主導的な役割を果たした一部の大名を除き、大半は許されている。西軍諸将が積極的に攻撃しなかったのは、そういう背景があったからだろう。

的確な判断をもたらしたもの

後陽成天皇は藤孝が討ち死にしたならば、古今伝授の伝承者がいなくなるのを心配した。

古今伝授とは、『古今和歌集』の解釈を中心にして、歌学やそれに関連する諸説を口伝、切紙、抄物によって、師から弟子へ秘伝として伝授することである。

元亀3年(1572)、藤孝は三条西実枝から古今伝授を受けていた。二条歌学の正統を伝えるのは、藤孝だけだった。

そこで天皇は藤孝に開城を勧めるため、使者を田辺城に派遣したものの、これは拒否された。同年9月3日、天皇は藤孝を救うべく、勅使として藤孝の歌道の弟子・三条西実条らを東西両軍に派遣して講和を命じた。

結局、藤孝は勅命に従って講和を決意し、9月13日に田辺城を明け渡した。そして、西軍の前田茂勝の居城・丹波亀山城(京都府亀岡市)に連行され、その後、高野山(和歌山県高野町)に向かった。この間、西軍の1万5千の兵は田辺城に釘付けとなったので、関ケ原に参陣することができず、このことが東軍の勝利につながったという。

戦後、子の忠興は軍功を賞され、豊前小倉(福岡県北九州市)などに39万9千石を与えられた。

一方の藤孝の晩年はあまり知られていないが、京都で過ごしていたことは明らかである。京都で亡くなったのは慶長15年(1610)8月20日。享年77。

藤孝はその生涯で、信長、秀吉、家康という三人の天下人に仕えた。

藤孝には和歌に優れた教養人という印象が強い反面、合戦での華々しい活躍の逸話が乏しい。しかし、時代の転換点において、主従関係や姻戚関係にとらわれず、的確な判断をしたことは注目に値する。

最初の主君の義昭は人望がなく、各地の大名に支援を呼び掛けたが、積極的に応じる者はなかった。

また、光秀も信長を討伐後、高山氏、筒井氏、中川氏らに支援を呼び掛けたが、誰も応じなかった。秀吉没後も、藤孝は冷静に状況を見極めたに違いない。

藤孝は情に流されず、冷徹なまでに合理的な判断を下す男だったのだ。

その背景には、和歌や連歌を通じた公家・武家との交流があった。豊かな人脈から正しい情報を得て、いずれに与するのか決定したのだ。

それゆえ田辺城籠城で窮地に陥っても、東軍が勝つと信じ、安易に妥協して西軍に屈しなかったのだろう。

つまり、藤孝は正しい情勢判断に長け、インテリジェンスに重点を置くことにより、戦国の世を生き抜いたといえるだろう。