《2008年9月リーマンショックから一年後の2009年11月、名古屋開府400年のPR大使として名古屋にゆかりの6人の武将と4人の足軽で名古屋おもてなし武将隊が結成された。これまで10年間の活動で、国や名古屋市から運営費として約6億5千万円の援助を受け、結果として210億円の経済効果をもたらしたという。

そのおもてなし武将隊の"徳川家康"さんは、実は"甦った"現在も、政府や集団の社会的な影響を研究する社会工学に深い興味を持つ学者肌の一面を持ち、国立名古屋工業大学で2019年に「武将隊における組織構造と活動特性」という論文で修士を取得。現在は同大学院にて武将隊と観光についての博士論文を執筆中の研究者という。

本稿では、そんな徳川家康さんに、武将隊の舞台脚本を書き、戦国時代を舞台とする『花戦さ』などのヒット作品の小説家でもある鬼塚忠さんが、新型コロナウイルス後の日本の観光業は、どうすれば立ち直れるかを聞いた》


小田原、鎌倉が日本の首都になっていたかもしれない?

(鬼塚)コロナ禍の影響で日本は危機に直面しています。特に東京は最も被害を出し、影響を受けています。家康様は、現在、478歳ということになりますね? 江戸を拓いた家康様は、2020年のこの東京について思うことはありますか?

(徳川)江戸は実質、儂(わし)が築いた地であり愛着がある。今の状況は看過できない。現世で東京とよばれる我が江戸は、流行り病(新型コロナウイルス)により苦しんでいるようだが、世界の他の都市と比べれば、死者数は少なく、善戦しているのが唯一の救いだ。

現世の皆にとっては東京は江戸期を含めると、ながい歴史的背景を感じる町であるかもしれないが、儂にとってはむしろあたらしい町と捉えておる。京都や昔からある町と違い、400年ほど前迄は何もなく、新しく一から作った町だからだ。その際に、軍事的な都市ではあったが、なにより衛生的な面を深く考慮して臨んだ。

もちろん、そのころはウイルスなんぞという考えはなかったが、不衛生であれば、病が流行ることは分かっていた。合戦時には儂は当時高価であったシャボン(石鹸)を兵卒に使わせ、衛生管理を徹底させたほどに。

儂は、時の天下人豊臣秀吉殿とともに小田原城を攻め落とし、戦勝の報酬だと実際の石高収入の少ない関東の北条氏旧領の石高の低い八カ国を与えられ、先祖代々治めていた地を含める豊かな五カ国を取り上げられてしまった。屈辱的であったが反せずこれを受け入れた。

そこで儂は早々に気持ちを切り替え、小田原か鎌倉に居を構えようと考えた。当時、関東の中心は、後北条五代の本拠地であった小田原の地。城も大きく、町も栄え、町自体を塁濠で取り囲んでいた。

これほど発達しているのであれば町づくりを一から始める必要はない。しかし、そんな町全体が大きな堅城のような小田原に入ることを、秀吉殿に見せるのは天下を狙う野心があると思われる心配があったからだ。

徳川家を取り潰されるきっかけを与えてしまう事を儂は恐れ、小田原をあきらめた。天下人の反感を買わず国を守ることが、当時の大名としては合戦での勝利以上に重要な事であった。

となれば次の候補は鎌倉であると検討をした。しかし、鎌倉幕府が滅んでから300年は経っていたとはいえ、源氏を名乗る儂が、軍事政権や将軍を連想させる鎌倉に入るなどは、これも避けざるを得なかった。

最終的には秀吉殿に勧められた江戸に二つ返事で入った。これにより豊臣政権では律義者で通るようになった。なぜなら当時、江戸は湿地帯でありさびれた城があるだけであった。

(鬼塚)なるほど。もし小田原、鎌倉を家康様が選んでいたら、今の日本の首都は神奈川県にあったのかもしれませんね!?

(徳川)それはない。一から町を作ったため、莫大な出費で苦労が絶えなかったが、戦のない新たな世に対応するためにすべてを一新する機会とできた。そのため、実は後の天下を狙う準備として好都合であったからじゃ。江戸であったらこそ日本を統一できたのだ。

中央政権であった豊臣家からの監視をのがれ、理想を追い求めた壮大な町づくりを進めていった。これは小田原や鎌倉では叶わなかった。


合戦時に石鹸を分ける、水道を整備する…衛生管理に気を配った徳川家康

町づくりうえで、力を注いだのが衛生面だ。特に、誰でも心配なく飲める清潔な上水道を作ることを命じた。

これは最も大事なことである。健康とは全ての要。儂は自身の健康管理の為に薬をつくるほど医学には精通をしており、水がこれに大きくかかわることを誰よりも心得ておった。合戦時においても、シャボン(石鹸)を兵卒に与え際も、きれいな水で体を洗い流させる事を命じた。

それまで、飲み水は井戸水を使うのが常だった。江戸の大部分は海岸沿いの低湿地を埋め立てた土地だったので、井戸の水は塩辛く、良い飲み水が得られない。

そこで、家臣・大久保藤五郎に命じ、町づくり(都市計画)の一環として上水道工事をさせた。後の神田上水の元となるのがこの小石川上水であり、川幅を少しずつ広げ、給水量を増やし続けた。

その水は、地下に埋めた木製や石製の配水管によって神田、日本橋界隈に給水されるようになった。この地下水路の水道網の距離の総延長は67キロに達した。

この清潔な水を供給する機構(システム)が、戦のない世と相まって後に際限なく広がる江戸を下支えした。

関ヶ原の合戦の後に将軍となった頃にはすでに、諸大名の家族を地元と江戸に交互に住まわせる参勤交代を構想し、巨大都市構想を描いておったがため、清潔な水の供給が急務であった。

結果、17世紀後半になると、江戸は、人口、面積、経済規模において世界最大の都市となったと儂は現世にて知った。