江戸幕府を倒し、近代日本を創り上げたのは「薩長土肥」と言われるが、水戸藩なくして、維新は成し遂げられなかったといっても過言ではない。長州の吉田松陰も、薩摩の西郷隆盛も、「水戸学」の影響を受けていたのだ。では、水戸学とはいかなるものだったのか――。ハーバードに学び、イェール大学で教鞭を執る新進気鋭の歴史学者マイケル・ソントンが、明治維新を「水戸」の視点から読み解く。

本稿では、日本を統一国家にすべく動いていた水戸藩・徳川斉昭が安政の大獄、桜田門外の変を経て、いかにして明治維新に影響を与えたか考察する。

※本稿は、マイケル・ソントン著『水戸維新』(PHP研究所)より、一部を抜粋編集したものです。


水戸藩への密勅、そして安政の大獄

朝廷から直接水戸藩へ下された、幕政改革を指示する「戊午の密勅」。安政5年(1858)8月30日、幕府はそれを返納するよう水戸藩に厳命した。同年9月、謹慎を命じられた徳川斉昭の雪冤を求める藩士や領民たちは、幕府に訴えようと次々に江戸へ向かった。

藩の役人らはこの動きに気づき、小金宿でこの動きを押しとどめ江戸入りを何とか阻止しようとしたが、その数は1,000人を超えるほどになった(第一次小金屯集)。

同じ頃、井伊大老は、本格的な反対派の処罰に着手していた。いわゆる「安政の大獄」である。同年9月18日、京都の水戸藩留守居役、鵜飼吉左衛門・幸吉父子が幕府によって逮捕された。水戸藩にさらなる危機が迫ってきたのである。

水戸藩内では激派が動き始めていた。斉昭の側近として郡奉行の要職も務めた金子孫二郎、同じく斉昭側近で奥祐筆頭取の高橋多一郎ら水戸にいた激派の一部は、「戊午の密勅」についての幕府からの返納命令を拒否し、あくまで勅諚の各方面への回達を目指していた。

同年12月、金子らは、住谷寅之介や関鉄之介など四名を西国に派遣し、世論を喚起するため諸藩との連携工作を推進することにした。

関は越前藩・鳥取藩を回り、長州萩に到着。水戸遊学で会沢正志斎門下となった人物に会ったが、長州藩を動かすに至らなかった。水戸遊学経験のある吉田松陰は獄中にあり、水戸藩の二人の志士が目的を達せず帰っていったことを日記に記している。

一方、住谷は四国を目指した。土佐の国境の関所まで到着した住谷らは、江戸で水戸藩士と交流していた坂本龍馬らと数度にわたって面会。坂本は住谷の話を誠実に聞いたが、激論の末に物別れに終わった。

坂本の反応は鈍く、住谷は失望して土佐を去り、宇和島藩に回ったが成果を得られず、帰途についた。土佐藩の尊王攘夷運動が高揚し、坂本が事態の重大さに気づくのは桜田門外の変後のことである。

諸藩との連携の目的を果たせなかった四名は、安政6年(1859)2月までに全員が水戸に帰藩したが、この間にも井伊の強権的な政治は大きく動いていた。同年4月に水戸藩家老たちが幕府に出頭を命じられ逮捕されると、危機感を抱いた水戸の士民たちは再び小金に屯集した(第二次小金屯集)。

同年10月には大獄における処分が確定し、斉昭が国元での永蟄居、慶篤は差控、慶喜は隠居謹慎。水戸藩士にも多数の処分者が出た。

同年12月15日、井伊直弼は登城した藩主・慶篤に対して、「朝廷から、先の勅命の返納を命じる勅命があったので、3日以内に幕府に提出せよ」との命令を下した。慶篤は水戸に急使を出し、水戸城では大評定が行われ、朝廷への直接勅諚返納を決した。

この藩の決定に憤激した激派は、水戸の南にある長岡宿に屯集し、返納実力阻止の行動に出た(長岡屯集)。

長岡には激派の藩士、郷士、神官、領民ら100名余りが集まっていた。彼ら長岡勢と気脈を通じていたのは、水戸にいた高橋・金子・関といった激派の面々であったが、鎮派が中心を占めた藩庁は高橋らの身柄拘束に動き、長岡勢を解散させようと必死になった。

安政7年(1860)2月18日、この動きを察知した林忠左衛門ら長岡勢の一部が、城下下市で警戒していた藩兵と、消魂橋で一戦を交える事件が発生。藩庁の追討軍が組織されることになったため、長岡勢は解散を始めた。

その半数は水戸城下から一里の河和田村の郷士・高倉家に身を寄せ、負傷した林も高倉家に匿われた。