堅固な守りでたびたび大軍を退け、巧みな外交術で生き残る──。上杉、北条、武田という大国が鎬を削る関東で、確かな存在感を示した名城と一族がある。金山城と城主・由良氏だ。知られざるその歴史に迫る!

鷹橋忍(作家)
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。 洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。 著書に『城の戦国史』 『滅亡から読みとく日本史』などがある。


石造りの神秘的な城と下克上を果たした一族

群馬県太田市の金山城は、紛れもない名城である。越後上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏をはじめとする名だたる戦国武将たちと10数回も攻防戦を繰り広げても、落城はおろか、城の中核部への侵入すら、1度として許さなかった。

城は文明元年(1469)、新田一族の岩松家純の命により建てられた。

戦国時代屈指のスケールを誇り、面積は全体で300ヘクタールにも及ぶ。標高239メートルの金山山頂に築かれた実城を中心に、北の北城、西の西城、南の八王子山ノ砦で構成されている。

戦国時代の関東の山城には珍しく、石造りの城郭である。特に、石造りの「大手虎口」は有名だ。神秘的な雰囲気をたたえる「日ノ池」と「月ノ池」という2つの水場も、石垣と石敷に囲まれている。

物見台からの眺望も素晴らしく、晴れた日には赤城山、榛名山、妙義山、浅間山まで見渡せる。

この金山城に拠ったのが、由良氏である。

由良氏は、もともとは「横瀬」といい、金山城の岩松氏の重臣として権勢を誇っていた。

しかし、横瀬泰繁・成繁父子が下克上を起こし、実質上の金山城主となった。その後、家督を継ぎ、金山城主となった成繁が、永禄7〜8年(1564〜1565)頃に、「由良」と改称したのだ。

この由良成繁の時代の上野国は、上杉氏、北条氏、武田氏の抗争の舞台であった。そんななか成繁は、難攻不落の堅城・金山城と、巧みな外交術を武器に生き残りを図っていく。

成繁をはじめ由良氏は、いかにして巨大勢力をはね返し、生き延びていったのだろうか。


絶体絶命の危機を切り抜けた勇将

由良氏のように、大勢力の境目に位置する国衆にとって、従属する相手を情勢によって替えていくことは、重要であり、けっして珍しくはなかった。由良成繁もまた、山内上杉氏から北条氏、そして、上杉氏から再び北条氏へと、次々と帰属先を換えていく。

由良氏(当時は横瀬氏)は長い間、関東管領(鎌倉公方を補佐する役職)を務める山内上杉氏に属していた。だが天文21年(1552)、北条氏の上野侵攻を受け、山内上杉憲政は長尾景虎(後の上杉謙信。以下、謙信と表記)を頼って、越後へ入った。

上野の国衆は憲政の没落を機に、次から次へと北条氏に従属していった。成繁はしばらくは北条氏に抵抗していたが、天文24年(1555)までには、その麾下に入っている。

ところが永禄3年(1560)9月、上杉憲政を奉戴した謙信の上野侵攻が始まると、成繁はいちはやく謙信の陣に参じた。

成繁は上杉方の部将として、上野攻略を図る北条方と戦った記録が残るが、それも長くは続かなかった。

永禄9年(1566)2月、下総臼井城を攻めていた上杉軍が、救援にきた北条氏の軍に攻められ、大敗した。

関東の諸勢力の目には、謙信は頼りなく、信頼に値しない武将と映ったのだろう。この敗北をきっかけに、関東の諸勢力は謙信から離れていく。成繁も、同年閨8月に離反し、北条氏の麾下に戻った。

成繁の離反に怒り狂った謙信は、由良氏の拠る金山城を攻める。だが、鉄壁の要塞・金山城は、軍神・謙信でも落とせなかった。

北条方として上杉氏と戦う成繁は、永禄11年(1568)12月、重要な任務を命じられる。

北条氏は武田氏との同盟が破綻したため、上杉氏との同盟締結を望んでいた。だが敵対関係にあり、直接に交渉するルートがない。

そこで、白羽の矢が立ったのが、成繁である。大勢力に挟まれた国衆である成繁は、北条氏にも上杉氏にも、深い人脈を築いていたのだろう。同じく、かつて上杉氏に属していた厩橋北条氏とともに、上杉氏との仲介を申しつけられた。

成繁は同月中から、「由良手筋」と称されるルートで、上杉方に和睦締結の打診をしている。交渉は難航したものの、翌永禄12年(1569)6月に、同盟が成立。その間、金山城はしばしば交渉の舞台に使われた。

成繁の手腕を、北条・上杉両氏にみせつけた越相同盟であったが、短命に終わってしまう。同盟に積極的であった北条氏康が、元亀2年(1571)に死去したことをきっかけに、年末には氏康の子・氏政が上杉との同盟を破棄し、再び、武田氏と同盟を結んだのだ。

越相同盟の崩壊を受け、謙信は総力をあげて上野攻略に乗り出し、由良氏は上杉方の攻撃を受け続けることになる。

天正2年(1574)、謙信が由良氏領への大規模な侵攻を開始した。3月10日には赤堀、善(膳)、山上、女淵と由良氏方の城を攻略し、金山城へと迫ってくる。由良成繁とその子・国繁は、金山城に籠城し、北条氏の救援を待った。

謙信は3月26日、藤阿久に陣を構えた。藤阿久は、金山城の物見台から死角になるという。そして4月1日、ついに金山城への総攻撃の命を下す。由良氏と金山城、絶体絶命の危機である。

『太田市史』によれば、攻防は1カ月あまり続いたというが、金山城が落ちることはなかった。北条氏政は「輝虎(謙信のこと)早々敗北、誠に武勇の至り、御名誉に候」と由良氏の防戦の功を称え、国繁に秘蔵の刀・兼光を贈っている。

その後も金山城は上杉方に執拗に攻められたが、落とされることのないまま、天正6年(1578)3月13日、謙信が死去する。6月30日には、成繁も没した。享年73。上杉や北条に、巧みな外交政策で立ち向かった勇将であった。以降、由良氏は、国繁が牽引していくことになる。