「暴君」というイメージが強い武田信虎だが、実は内政面で「先駆的」と評価されている事績を残している。甲斐国の首都、甲府の建設である。新たに中心都市を建設した信虎の狙いとは、何だったのか。(写真:武田神社〈山梨県甲府市〉)

※本稿は、平山優著『武田三代―信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

信虎が首都甲府建設を決断した理由

武田信虎は、通説によれば、祖父信昌、父信縄の居館であった川田館をそのまま本拠として継承したといわれている。信虎は、永正11(1514)年に、川田館を整備しなおしたが(『王代記』)、永正15年6月2日、甲府に居館を移すことを国内に宣言した(同前)。

信虎が、川田館を廃し、新たな居館と首都建設を決断した理由とは何であったのか。その理由は諸説ある。それらを列挙すると、以下のようになる。(1)川田館周辺は、洪水の常襲地帯であったことから、政治・軍事・経済の中心としての、安定した都市整備が困難だったこと、(2)甲府盆地の開発が進み、伝統的な東郡(ひがしごおり)だけでなく、中郡(なかごおり)や西郡(にしごおり)などの農業や商工業も発展してきており、それらを統合するためにも、甲府盆地中心部への進出を必要としたこと、(3)室町後期から戦国期にかけての、甲斐の市・町・宿の状況をみると、東郡だけでなく甲府盆地にほぼ万遍なく展開する状況になっており、(2)の状況が裏づけられた。このことなどから、政治都市甲府の建設を領国経済の統制の軸とすることで、戦国大名としての権力確固たるものにしようとしたこと、(4)川田では、城下拡大には手狭であり、しかも防衛などに課題があること、などである。

この他にも、父祖以来、武田氏は守護代跡部氏(小田野城主)や、武田一門で有力国衆の栗原武田氏(栗原氏館、金吾屋敷など)の軍事力に支えられ、庇護される形で維持されてきた。信虎は、この状況を克服し、彼らに頼ることなく、自立した政治権力として国衆の上に君臨し、統治を果たすべく、新首都建設に踏み切った可能性が指摘されている。

信虎が甲府建設後、真っ先に実施したのが、栗原・今井・大井氏らの国衆を含めた家臣の城下集住策であったことは、その象徴である。それまでのように、武田氏が依存する国衆の支配領域近くに居館を建設するのではなく、逆に自ら築いた城下に彼らを呼び寄せたのは、まさに彼らの上に立つ政治権力であることを、鮮明にする行為に他ならなかった。

躑躅ヶ崎館の完成

甲府の建設は、永正16年8月15日から本格的に始まった。同年12月20日、居館が完成したらしく、信虎は川田館からここに移り住んだ。この居館こそ、信虎・信玄・勝頼三代、62年にわたって使用された武田氏館(以下、躑躅ケ崎館)である。また信虎は、甲斐の国衆や譜代らにも、甲府城下に屋敷を造らせ、そこへ居住を命じた。信虎の甲府移転とあわせて、信虎正室大井夫人や、小山田信有正室(信虎の妹)も転居しており、信虎の甲府移転時には、すでに城下においても国衆や家臣らの屋敷がかなりの程度完成していたことを窺わせる。信虎が実施した、甲斐国衆らの城下集住政策は、当時としては画期的であり、織豊期の家臣らの城下集住策のさきがけでもあった。

信虎は、甲府に府中八幡宮(武田氏の氏神、石和八幡宮より遷座)、御崎明神(武田氏の屋敷神、川田館より遷座)、大神宮(旧石和御厨の鎮守、窪中島より遷座)、国母地蔵尊(法城寺)などを移転させ、新規造営として南宮明神(諏方明神)、大泉寺(曹洞宗、信虎の菩提寺)、誓願寺(浄土宗)、天尊体寺(浄土宗、武田竹松〈信虎の長男〉の菩提寺)、信立寺(日蓮宗)などが数えられる。