織田信長に近習として仕え、信長没後は、羽柴秀吉の元で、越前北庄城の城主になった堀秀政。二人が天下人となっていくなかで、秀政が担っていた役割とは、いったいどのようなものだったのか。

柴裕之(東洋大学文学部非常勤講師)
昭和48年(1973)東京都生まれ。東洋大学大学院文学研究科日本史学専攻。博士後期課程満期退学。博士(文学)。著書に『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦』『徳川家康 境界の領主から天下人へ』『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』、編著に『図説 豊臣秀吉』などがある。

※本稿は歴史街道2021年12月号より一部編集のうえ、掲載したものです。


斎藤道三の家臣だった父

「名人」と世間に評価された武将・堀秀政。彼は天下人の織田信長や、羽柴(豊臣)秀吉と関わりながら活動した。その生涯をたどりつつ人物像をみていこう。

秀政は、天文22年(1553)に美濃国茜部 (岐阜市)で生まれた。幼名は菊千代、元服してからは通称(仮名)として久太郎を称した。父の秀重は茜部を拠点に活動する土豪で、戦国大名の斎藤道三に仕えていた。その後、秀重は信長が美濃攻略を進めるなかで、織田家に仕えたという。

秀政も父の秀重が織田家へ仕官したのに伴って、信長に見出され、側近くに仕える「近習」となった。江戸幕府(徳川政権)が編纂した『寛政重修諸家譜』では、永禄8年(1565)、13歳の時のこととされる。

この説は、江戸時代に美濃一色氏(斎藤氏は道三の後継・義龍の時代に、一色に名字〔家の苗字〕を改姓している)の居城、稲葉山城(岐阜市)が、永禄7年(1564)に信長の攻撃により落城したとの説を前提にして導きだされたものと判断される。だが現在、稲葉山の落城は永禄10年(1567)8月、または9月であることがはっきりしている。このため、秀政が信長に見出され、近習として仕え始めたのが、永禄8年のことであったという説については、もう少し検討の必要がありそうだ。

さて、秀政の活動がはっきりみられるようになるのは、元亀年間(1570〜73)以後のことである。そして、信長が足利将軍家に代わり、天下人へと歩みだすと、秀政の活動はより一層活発になっていく。

信長の信頼厚く、実務を忠実にこなす勇将

では、秀政の活動とは、どのようなものであったのだろうか。まずあげられるのが、信長の意向を指示・伝達し、各方面からの報告や申請などを信長へ上申する、いわゆる「取次」「奏者」といわれる役割である。

前近代の社会において、上位権力者(主君)とのやり取りは、父子の間柄であっても基本的に直接行なうことはできず、その間を仲介する「取次」「奏者」を務める人物が必要であった。

この「取次」「奏者」を務める人物とは、いわば秘書にあたり、上位権力者の側近くに日常的に仕え、信頼の高い人物が務めた。秀政がこの役割を務めていたということは、彼が信長にとって信頼の厚い人物であったことがわかる。

しかもこの役割には、ただ単に主君の意向を指示・伝達し、報告や申請の上申に携わるだけでなく、任務者の判断や助言も加えて進められた。秀政の場合も、申請を受け、それに秀政の判断を加えたうえで、信長への上申が行なわれた事例がみられる。

こうした活動は、織田家内部に止まらず、通交関係のある大名との間においても行なわれた。例えば、天正7年(1579)8月、徳川家康は、対立した長男の信康を三河岡崎城(愛知県岡崎市)より追放した。その際に家康は、秀政にここに至るまでの「取次」「奏者」活動による懇切な応対についての感謝を述べたうえで、信長への報告を頼んでいる。

次にあげられるのは、使者または戦場の監察を行なう「検使」を務めていることである。使者や検使の務めには、主君の意向を十分に熟知していることが求められる。つまり、「取次」「奏者」の活動同様に、これも信長に日常的に側近く仕え、信頼の厚い人物の役割であり、秀政がその立場にふさわしい一人であったことがわかる。

ちなみに秀政は、元亀3年(1572)8月に、対陣する越前朝倉氏の軍勢のもとへ使者として赴き、一戦を遂げるよう誘ったと『信長公記』にみえるが、これが同書での秀政の活動初見でもある。

ついであげられるのは、信長から指示された実務に携わる「奉行」としての活動である。

秀政の奉行としての活動は、織田家蔵入地(直轄地)の経営や、人足の徴発などがみられる。そのほかには、天正7年5月に、近江国安土(滋賀県近江八幡市)の浄厳院で開催された教義論争(安土宗論)において、敗れた日蓮宗信者からの詫証文を受理したり、天正9年(1581)3月には、和泉国の所領調査に際して、同国の家臣や寺社から申告をさせたのだが、それを拒んだ槇尾寺(大阪府和泉市)を軍勢を率いて取り囲んだうえ、織田信澄 (信長の甥)や惟住(丹羽)長秀ら諸将とともに焼き払うなどした活動がみられる。

さらには、菅屋長頼・長谷川秀一・福富秀勝・矢部家定とともに、馬廻衆(親衛隊)を統率する立場にもあった。

また勇将であった秀政は、天正9年9月の伊賀攻めでは、御斎峠を越えて信楽口からの攻撃を担当する部将としても活躍した。

これらの活動からみえてくる秀政像とは、側近く仕える近習のなかで、信長から信頼を得ていて実務を忠実にこなし、戦場では攻め手の一将を務める勇将でもあったという姿であろうか。

そのうえ、後世に伝わるところによると、秀政は上下の隔てなく相手のことを思いやる人物であったとされる。こうした人柄が、信長の寵愛を受けることにもつながったのだろう。それを裏付けるように、近江安土城での彼の屋敷は、一般の家臣とは異なり、信長の寵臣として、城内(安土山中)に設けられていたことがわかっている。

なお、『寛政重修諸家譜』など系譜類によると、秀政は天正9年9月に信長から、重臣の羽柴秀吉の居城であった近江長浜城(滋賀県長浜市)を与えられ、城主になったとされる。しかし、秀吉はその後も城主として、その管轄地域(長浜領)を支配し続けている。したがって、秀政が長浜城主となったという説は誤りだろう。