長年にわたって戦いを繰り広げた源氏と平氏。それは貴族の世から武士の世へ、時代の転換を告げる戦いとなった。勝者と敗者を分けたものとはなんだったのか。そして頼朝による武家政権は、日本の歴史に何をもたらしたのか。

安部龍太郎(作家)
昭和30年(1955)、福岡県生まれ。平成2年(1990)、『血の日本史』でデビュー。『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞、『等伯』で直木賞を受賞。主な著書に『信長燃ゆ』『レオン氏郷』『平城京』『家康』『迷宮の月』『特攻隊員と大刀洗飛行場』などがある。


武士の誕生、3つのルーツ

平安末期、源氏と平氏というふたつの武家が戦いを繰り広げた。平氏は西国のイメージが強いが、時代を遡ると源氏同様、東国に根を張っていた武士団である。

武士の誕生には3つのルーツがある。

1つは「健児(こんでい)」と呼ばれる兵士で、律令制のもとで国司の配下にあり、各地の治安維持にあたっていた者たち。

もう1つは、律令制の崩壊に伴って、荘園領主たちが、自分の所領の耕作を請け負わせ、武装化していった「田堵(たと)」。

そしてもう1つは、奥州を鎮定する際に捕虜になった蝦夷たち。彼らは「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、健康で屈強な男たちが多かったため、労働力として各荘園に預けられたが、やがて逃亡し、野盗になるなどしていた。

関東において、こうした者たちが職業武士団として確立していく契機となったのは、対蝦夷政策である。

当時は畿内を中心とする日本と、東北地方の蝦夷は別の国という意識があった。彼らには、蝦夷の侵略を防ぐ、いわば国境警備隊の役割を与えられたのである。

中国では古来、ウイグルや満州など、遠方に警備隊を置く場合、食糧を中央から供給するのは難しいため、彼らに開拓を促し、自分たちで農業をやって生活せよ、といった方策がとられた。

これを日本でも採り入れて、国境警備隊として置いた者たちに、開発領主として農業もやりなさい、なにかあったら奥州に攻めていけ、という体制をとった。

武士団はこうした蝦夷対策によって、成長していったのである。


関東で成長した源氏と平氏、その分かれ目

源氏は当初、摂津や河内など、畿内を中心に活動していた。

最初に目覚ましい活躍をしたのが源満仲で、安和2年(969)、左大臣・源高明が失脚した安和の変に関与し、藤原摂関家の信頼を獲得した。

その子・頼信は、長元元年(1028)に房総地方で起きた平忠常の乱を平定。坂東武士の多くが頼信の配下となり、以後、源氏は関東で大きく伸長していく。

一方の平氏は、平安中期頃から東国に移り住み、天慶2年(939)の平将門の乱などを経て勢力を拡大していった。「坂東八平氏」と呼ばれる秩父氏、三浦氏、千葉氏などはそこから派生した一族である。

その後、源氏が関東を拠点にし、国境警備隊兼開発領主の立場であり続けたのに対し、平氏は伊勢地方へと勢力を伸ばしていく。

当時は、畿内から関東への、兵や物資の輸送は海運が中心で、伊勢湾から伊豆を通って関東へ船で運んだ。平氏はこの海運業に目をつけたのだ。

長元元年の平忠常の乱で一時没落した平氏は、伊勢に進出することによって、活路を見出そうとしたのではないか。これがやがて、伊勢平氏と呼ばれる武士団に成長していく。

彼らは海運で財を築き、清盛の父・忠盛の時には、日宋貿易を牛耳るようにまでなっている。それによって得た資金で、中央政権との結びつきを強めていったのだろう。

源氏が摂関家に接近して力をつけたのに対し、平氏が接近したのが院であった。

承徳元年(1097)、清盛の祖父・正盛は白河法皇に伊賀の所領を寄進し、関係を深めた。父の忠盛も、鳥羽上皇に得長寿院を寄進して接近している。