頼朝と義経には、ほかにも兄弟がいた。六男の範頼のほか、「悪源太」の異名を轟かせた長男の義平、義経の同母兄弟である全成、義円……。

平治の乱での敗北後、ばらばらになった兄弟たちは、いかなる人生を歩んだのか──。

※本稿は、「歴史街道」2022年4月号より、一部を抜粋編集したものです。

【中丸満PROFILE】
昭和47年(1972)、広島県生まれ。出版社、編集プロダクション勤務を経て著述業。日本の古代・中世史を中心に書籍や雑誌、ムックなど幅広く執筆活動を行なっている。著書に『平清盛のすべてがわかる本』『源平興亡三百年』『鎌倉幕府と執権北条氏の謎99』、共著に『よくわかる平清盛の真実』などがある。


源義平(よしひら/1141〜1160)...平治の乱で平家を苦しめた「悪源太」

源義朝の長男・義平は悪源太の異名で知られる猛将である。「悪」は現在のような不道徳や不義などの意ではなく、勇猛や剛毅さを表わす接頭語として、この時代にしばしば用いられた。

義朝が鎌倉を拠点として南関東に勢力を拡大していた頃にもうけた子で、母は相模の在庁官人・三浦義明の娘とされる(遊女とする説もある)。

弟の朝長・頼朝が早くから任官したのに対して、義平は長男ながら出自の低さのため、無位無官であった。しかし、武将として卓越した器量をもち、鳥羽院の近臣として在京する父に代わって、南関東の武士団を統率する役割を果たした。

15歳の時、義朝と対立し北関東で勢力を伸ばしていた叔父の義賢(木曾義仲の父)を、武蔵国比企郡の大蔵合戦で討ち取り、武名をあげる。この事件により、かねてから対立していた為義・義朝父子の関係は修復不可能となり、翌年の保元の乱における源氏の分裂を決定づけたといわれる。

平治の乱では、斎藤実盛・熊谷直実ら17騎の精鋭を率いて大内裏で平家軍と戦い、真っ先に六波羅へ攻め込んだ。しかし、源氏勢は敗れて京を脱出。義平は東国をめざす一行と別れ、再起を図るため地方武士の組織化に努めたが、義朝の死が伝わると、味方の武士は散り散りになってしまう。

そこで義平は単身京に上り、清盛の暗殺を企てたが重病にかかり、平家の家人・難波経房に捕らえられる。

六条河原で斬首される間際、義平は経房に、「雷になって蹴り殺してやる」と、呪いの言葉を浴びせたという。その予言どおり、8年後、経房は摂津布引の滝で落雷に打たれて亡くなったと、『平治物語』は伝えている。


源朝長(ともなが/1144?〜1160)...“父の手で”夭折した悲劇の若武者

義朝の次男で、母は波多野遠義の娘。波多野氏は代々摂関家に仕え、五位の位階をもつ相模の有力豪族である。勅撰集に入集される歌人も輩出するなど、坂東武士では珍しく高い教養を備えた一族であった。

朝長の祖父・遠義も従五位下の位階をもち、崇徳天皇に仕えた下級貴族であった。義平の母方の三浦氏より身分が高いため、朝長が義朝の嫡子になる可能性もあったといわれる。

事実、朝長は波多野氏の威勢をバックに、13歳で左兵衛尉に任官。保元4年(1159)には従五位下中宮少進となり、二条天皇の中宮・姝子内親王に仕え、中宮大夫進と呼ばれた。

しかし、後白河院との提携を重視する義朝は、上皇やその姉・上西門院と関係の深い藤原季範の娘(由良御前)が産んだ頼朝を嫡子に選んだ。この前年、朝長の伯父・波多野義通が義朝と対立し、相模に帰国したのは、朝長の処遇に不満を抱いたためと推測されている。

平治の乱に参戦したのは16歳頃だった。敗れて父とともに東国をめざす途中、大原に近い龍華越で延暦寺の悪僧の襲撃を受ける。この時、一族の源義隆 (八幡太郎義家の子)が討ち死にし、朝長も左股を射られて重傷を負った。

その後、美濃国青墓 (岐阜県大垣市)まで進んだが、過酷な逃避行により傷は悪化。歩行困難となった朝長は自ら死を願い出る。義朝は「がまんできるなら供をせよ」と励ましたが、朝長は「できるなら父の手で死にたい」と述べて自ら首を差し伸べ、父の手にかかり短い生涯を終えたという。