文学史に名を遺した文豪たち。しかし、仕事が続かなかったり、引きこもりだったりと、その人生は一筋縄ではいかないものばかり。偉人研究家の真山知幸氏が、文豪の"意外なウラの顔"を紹介する。

※本稿は、真山知幸著『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか』(PHP研究所)より、内容を一部を抜粋・編集したものです。


江戸川乱歩...他に何もできないから、1つの道で大成した

生涯をかけて打ち込むべきことと出合い、邁進する。そんな偉人のひたむきな姿に刺激を受けて、自分も何かを極めようとしても、たいていうまくいかない。なぜなら、大半の人は、偉人よりも多くのことができてしまうからだ。

偉人が1つのことに取り組めるのは、実のところ、「それ以外のことが絶望的にできない」ということが少なくない。その代表選手が、作家の江戸川乱歩である。

乱歩は大学卒業後、大阪の貿易商社で働き始めるが、わずか1年で脱走。住み込みだったため、職場の人と絶えず顔を合わせる環境が耐えられなかった。

「私には少年時代から思索癖というようなものがあって、独りぼっちでボンヤリと考えている時間が必要だった。食事や眠りと同じように必要だった」

次は造船所で職工に読ませる雑誌の編集を行った。最初は夢中になったが、段々と出勤が嫌になる。このときもわずか1年で退職している。腰が定まらず、職を転々とした乱歩。

どうしても、せいぜい半年から1年で会社を辞めてしまう。理由は、妄想癖だけではない。乱歩は朝起きるのが非常に苦手だった。だが、27歳のとき失業中に2週間で書きあげた『二銭銅貨』という小説を雑誌に投稿すると、乱歩の人生は一変。次々と注文が舞い込むようになる。

「小説家になって、やっと朝起きなくてもよくなり、毎日きまりきった勤めをしなくてすむことになったので、やっと助かったのである」

ようやく天職に出合えたといえそうだが、乱歩からすれば、他の仕事に比べてまだできる仕事に過ぎず、確固たる自信があったわけではなかった。『湖畔亭事件』『一寸法師』といった意欲作に取り組んでも、こう落ち込んでいる。

「私が普通の意味の小説が如い何かに下手であるかを証明したにすぎなかった。私は自己嫌悪に陥り、筆を断ちたいと思った」

そのため、乱歩は作家になってからもたびたび休筆した。休筆期間は、合計すると実に17年にもわたる。編集者に熱心に頼まれて書いた『陰獣』についても、自身でこきおろしている。

「長所も欠点も従来の私を一歩も出ていなかった。こんなものをいくら書いても仕方がないじゃないか」

それでも今さら会社勤めができるわけでもない。ほかのことが全くできない乱歩は、ただ小説を書き続けるしかなかった。

「自分ではつまらないと思っても、編集者がやいのやいのといってくれるあいだ、原稿稼ぎをしてやろう、売文業を大いにやろう」

空想癖から仕事を何度もクビになった乱歩。実は、小学校や中学校ではいじめに遭い、脳内の妄想と父の書斎が唯一の逃げ場だった。そんな経験が、乱歩の作家活動を支え続けたのだ。


太宰治...どんな破滅的な状況でも、夢だけは手放さなかった

太宰治は、青森屈指の富豪の家庭に生まれた。学生時代の成績は常にトップクラスで、作文が得意だった。順風満帆な人生に変化が訪れたのは、敬愛する芥川龍之介が自殺してからのことである。

芥川の原因不明の自殺は、太宰を茫然とさせ、服装までも一変させた。絹織物に角帯を締め、雪駄を履くなど、いかにも粋な作家然とした姿で、花町で義太夫を習い始めた。

20歳のときには、下宿先で睡眠薬カルモチンを大量に飲み、自殺未遂をはかっている。それから東京帝国大学在学中の21歳のときに、カフェで会ったばかりの女性と心中を図り、自分だけが生き残る。

26歳では新聞社の入社を目指すも失敗。鶴岡八幡宮のそばで首つりを実行するが、紐が切れて未遂に終わった。

太宰は人生にいきづまると決まって、死ぬそぶりを見せる。そして自殺未遂を行うたびに実家に尻拭いさせ、資金援助を引き出した。結果として、働くことなく小説を書き続けている。

自殺について太宰はこう話したこともあった。「処世術とは考えられないかなあ」太宰は幾度となく人生に絶望しながらも、己の文学の才能には絶望することなく小説を書き続けた。もっとも精神が安定したのは、甲府に転居していた30代前半の頃だ。

師匠の井伏鱒二に紹介され、石原美知子と結婚。太宰は二度目の結婚だったが、心を入れ変えようと、師の井伏にこんな決意表明を行っている。

「結婚は、家庭は、努力であると思ひます。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。貧しくとも、一生大事に努めます」

また、書き続けたことで文壇での地位も確かなものとなり、落ち着いた気持ちで執筆に臨むことができた。やがて2人の子どもにも恵まれている。

その筆は戦時中ですら衰えることなく、空襲に襲われたときには、書きかけの『お伽草子』の原稿を持ち出すために、逃げるのが少し遅くなったという。人一倍怖がりの太宰だったが、原稿だけは何としてでも戦火から守りたかった。

1948年6月13日、太宰は愛人と玉川上水に飛び込んで心中を図る。今度は未遂にならず、そのまま命を落としている。遺体発見日である6月19日は、太宰の39歳の誕生日だった。

波乱万丈の人生のなかで、文学への姿勢だけは変わらず誠実だった太宰。太宰ファンの大学生に「小説を読んでもらえないか」と言われると、快諾して座り直した。そして読み終えるまで、太宰は正座を崩さなかったという。

門人への手紙で太宰はこんな言葉を綴ったこともある。
「僕も38だからね、40までには、大傑作を1つ書いておきたいよ」

2年後にそれは実現する。タイトルは『人間失格』。死の1カ月前に書き上げられたこの作品は、文学史に残る傑作として今でも読み継がれている。