映画やアニメなど、素晴らしい作品を世に送り出したクリエイターたち。しかし、その道のりには、借金や、仲間からの裏切りなど数々の困難が立ちはだかったことも。偉人研究家の真山知幸氏が紹介する。

※本稿は、真山知幸著『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか』(PHP研究所)より、内容を一部を抜粋・編集したものです。


ウォルト・ディズニー...信頼したパートナーに裏切られ続けた

あのアブが引き抜きに応じた...。ウォルト・ディズニーは電話でそう聞かされてもなお、信じることができなかった。電話の相手はパット・パワーズ。映画の配給を行っており、その好条件からウォルトが契約に踏み切った人物だ。

だが、ミッキー・マウスが活躍する『蒸気船ウィリー』がヒットしても、送金もろくしない。そのうえ、ディズニー社の中心的アニメーターのアブ・アイワークスと勝手に契約したというではないか。

ウォルトが18歳で無謀にも初めて会社を立ち上げたとき、声をかけたのが、元同僚のアブだった。「アリス」「オズワルド」、そして「ミッキー・マウス」...。

愛すべきキャラクターを作り上げるため、アブとともに汗をかいてきた。ウォルトが「とても信じられない」とつぶやくと、パワーズはこう交渉した。

「契約更新さえしてくれれば、アブを残すこともできるんだよ」
パワーズは映画の収益を曖昧にしたまま、ウォルトと契約更新にふみきろうと目論んでいた。ウォルトは気持ちを立て直して、はっきりとこう言った。

「いえ、結構です。アブがそういう気持ちならば、一緒に働くことはできません」ウォルトは契約の更新を拒否。新しい配給会社を探すがなかなか見つからない。

実は、ウォルトが裏切られたのは初めてではない。『しあわせウサギのオズワルド』がヒットしたときも、興行者の画策により従業員の大半が好待遇で引き抜かれ、人気キャラクターの権利まで奪われていた。

ウォルトはこんな言葉を残す。
「順風満帆のときは、いつなんどきなにかがだめになりはしないかとひやひやした」

しかし、確かな技術があれば道は必ず拓ける。ウォルトはコロンビア映画と契約を締結。そしてアニメ作品のカラー化に挑むことを決意する。ウォルトは兄ロイの反対を押し切って、これまで作った分を全部破棄させた。

そしてカラー化に挑んだ結果、『花と木』と『三匹の子ぶた』で2年連続のアカデミー賞を受賞する。息つく間もなく、ウォルトは次にアニメの長編化を試みる。

莫大な費用がかかるため、兄のロイがまたも反対するも、言い出したら聞かないのがウォルトである。社運を賭けた、世界初の長編アニメ『白雪姫』は大きなヒットとなる。

「なにか新しいことを始めないと、私は死んでしまう」
新しい挑戦には逆風がつきものだ。それでも信頼したパートナーに裏切られること以上の困難はなかったし、裏切りを経験したことで今そばにいてくれる人の大切さを知ることもできる。

ウォルトにはハラハラしながらも見守ってくれる兄ロイの存在があった。心配性の兄も弟の実力を見直したことだろう。だが、このときのロイはまだ知る由もなかった。この有言実行の弟が、さらに途方もない夢を抱くようになることを...。

ウォルトがディズニーランドを開園したのは1955年7月17日、53歳のときのことだ。マスコミに「絶対に失敗する」と言われながらの新たな旅立ちだった。


スピルバーグ...自分を犠牲にしてでも喜ばせたい! 根っからのエンターテイナー

スピルバーグは『未知との遭遇』の製作に入った頃、30歳くらいになるまで、人前でシャツを脱ぐことができないでいた。背が低く、痩せていたため、かぼそい腕を晒さらすことに抵抗があったからである。

自分の外見へのコンプレックスが強かったスピルバーグが最も没頭したのが、テレビ番組だ。1950年代のちょうどテレビが家庭に普及し始めた頃のことだ。スピルバーグは様々なドラマが放送されるのを、かじりつくように観ていた。

「自分でも本当にアイゼンハワー時代のテレビっ子だと思うよ」

そのことが、のちに映像のリズムや可能性について直感的なセンスをそなえさせることになる。また、スピルバーグはテレビ漬けになりながら、古い映画を浴びるように観た。

というのも当時のテレビ局は費用をかけずに視聴率を稼ぐために、1930年代のハリウッド映画を多く流していたのだ。いわば、スピルバーグにとって、テレビは映画作りの学校だった。

9歳のとき初めて父に劇場に連れて行ってもらってからは、映画館もお気に入りの場所となる。「ぼくは暗闇が苦手なんだ。映画館だけは別だがね」。父の仕事柄、引っ越しが多く、なかなか友達ができなかったスピルバーグ。

映画の世界に浸りながらも、ある思いが頭をもたげていた。
「ぼくは生まれたときから人を幸せな気分にしたいと願っていた。子どもの頃には人形芝居をした」

自分の力で周囲の人を笑顔にしたい―。そんな思いが、やや歪な形でのサービス精神として発揮されたこともある。

学校で徒競走に出場したときのことだ。ビリから2番目を走っていたスピルバーグは、後ろを走っている少年ジョンが今にも追いつきそうなことに気づく。

ジョンはハンディキャップがあったため、他の生徒はみなジョンのほうに声援を送ったという。「がんばれ、ジョン。スピルバーグなんて抜かしてやれ! 」

スピルバーグは「ビリにはなりたくない」と思いながらも、見応えのあるショーとして成立させようとする。何とわざと転んで、ジョンに追い抜かされたのだ。そして、すぐに立ち上がると猛然と走り出し、ジョンに追いつく寸前で、わずかに遅れてゴール。会場は大盛り上がりとなった。

ジョンが友達に祝福されるなか、スピルバーグは運動場に立ち尽くして、5分間も泣き続けた。当時の心境を自身でこう語っている。

「あんなにいい気分になったことも、あんなに惨めな気分になったこともない」

自分の勝利を犠牲にしてまで、その場の盛り上がりを優先させたスピルバーグ。徹底した「観客目線」を武器に、ハリウッド随一のヒット・メーカーへと成長していくことになる。