豊臣秀吉によって決行された「小田原攻め」。豊臣方の攻勢により、北条氏の本拠・小田原城はあえなく降伏開城したが、なんと支城である「忍城」は孤城となりながら攻防戦を続けた。戦国時代最後の合戦ともいえる「忍城の攻防戦」とは一体どんな戦いだったのか。小和田哲男氏が解説する。

※本稿は、小和田哲男著『教養としての「戦国時代」』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです


本拠が落ちても戦い続けた城

戦国時代最後の合戦は何か。その問いに、多くの人は関ケ原の戦いや大坂の陣を挙げることだろう。しかし歴史家の中では、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めがそれにあたるという見方がある。

秀吉が関東の覇者・北条氏を滅ぼした一戦が、なぜ戦国最後の戦いなのか。その理由は後で述べるが、この戦いで、極めて異例ともいえる攻防戦を繰り広げた城があった。

それは、北条方の忍城(埼玉県行田市)である。

忍城攻防戦が興味深いのは、北条氏の本拠である小田原城が降伏開城した後も、孤城となりながら攻防戦を続けたことにある。通常、本拠が落ちれば、支城も開城するものだが、忍城はそうしなかった。

これは戦国時代において稀有な例といえる。なぜ、忍城は戦い続けたのか。またこの攻防戦にはどんな意味があったのか。まずは、小田原攻めの経緯から見ていくことにする。

天正10年(1582)、本能寺の変で信長が横死した後、秀吉は畿内を勢力下に置き、その後継者としての地位を固めていった。

天下統一を目指す秀吉は、天正13年(1585)に四国の長宗我部元親を、天正15年(1587)には九州の島津義久を降し、西日本を平定。残るは東国のみとなった。

そして東国において最大勢力を誇り、統一の障害となっていたのが、小田原の北条氏政・氏直親子である。その勢力は、関東一円に及ぶ強大なものであった。

当初、秀吉は北条氏を平和裏に降すべく、外交交渉で帰順を働きかけていた。ところが北条氏は、秀吉に靡こうとしなかった。

やむを得ず、秀吉は武力行使を決意。そして天正17年(1589)、北条氏が真田氏の名胡桃城を奪取したことを口実に、秀吉は諸大名に出陣を命じたのである。総勢22万とも号する、日本史上空前の大軍であった。

秀吉にとって小田原攻めは、単に北条氏を降すためのものではなかった。この機会に、東国諸大名に武威を見せつけ、一気に天下統一を果たす目論見だったのである。そのため、豊臣政権への臣従を明確にしない伊達政宗ら東国大名に小田原への参陣を命じており、拒絶した大名家はのちに取り潰している。

一方、北条氏は5万以上の兵を動員し、徹底抗戦の構えを見せた。関東に張り巡らされた支城網で豊臣方の攻勢をしのぎ、天下の巨城・小田原城に拠って、秀吉を撤退に追い込もうとしたのである。

こうした北条氏の抗戦を、"天下統一に向かう時代の流れが読めていない"と否定的に見る向きがあるが、大きな誤解というべきだろう。小田原攻めの少し前まで、東北の伊達氏、関東の北条氏、東海の徳川氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏と、各地に有力大名が割拠していた。

中でも北条氏は関東制覇を目指し、その圏内で独自の政策を実施しており、それは現代における地方自治といっていい状態だった。そして一時期、徳川家康と伊達政宗は、そうした北条氏と同盟し、秀吉と対抗していたのである。

そのため、豊臣政権のような並外れた勢力が生まれなければ、日本は統一国家とならず、北条氏のような地方政権が並立する、分権国家になる可能性があった。

つまり小田原攻めは、日本が分権国家から統一国家に舵を切る、歴史的な転換点といえる。

また、この戦いまでは実力次第で領地を切り取ることができた。こうした実力主義こそ戦国的価値観であったが、小田原攻めによって天下統一が成って以降、他人の領地を侵すことは、豊臣政権によって"私戦"として禁じられた。

一方、秀吉死後に起きた関ケ原の戦いの主眼は個々の領地争いではなく、豊臣政権存続か徳川政権誕生かという、統一政権の選択にあった。つまり、厳密には、戦国時代は小田原攻めで終結したというべきだろう。

分権国家から統一国家への転換、戦国最後の戦い...。忍城の攻防戦は、そうした歴史的背景の中で生起することとなる


実は、関東七名城に数えられる要害だった

天正18年3月1日、秀吉本隊は京を出陣し、東海道を北条領に向け進軍。3月29日、豊臣軍は北条氏が箱根に築いた要害・山中城を僅か半日で攻略し、4月3日に、小田原城を包囲した。

同時に秀吉は、関東一円に広がる北条氏の支城を各個撃破すべく、別働隊を派遺。一手は北陸から上野に、また一手は相模から武蔵などに侵攻させた。そうした戦略の中、忍城に向かったのが、秀吉の腹心・石田三成であった。

実はこの戦いの史料となるのは、『成田記』『関八州古戦録』など、江戸時代の軍記物のみで、どこまでが史実なのかわからない。しかし忍城方が奮戦し、三成が水攻めを試みたのは事実であるから、ここでは通説に沿ってその経緯を見ていきたい。

石田三成は、大谷吉継や長束正家ら豊臣政権の奉行衆と、佐竹氏ら関東諸大名を引き連れ、2万3000の大軍で忍城を包囲した。対する忍城の城主は、成田氏である。関東屈指の名族で、かつて源義家に馬上礼を許された家柄であった。

当時、当主・氏長は、兵500を率いて小田原に籠城していた。そのため氏長の従弟・成田長親が代わりに指揮を執り、脇を正木丹波守、柴崎和泉守、酒巻靱負らの武将が固めていた。

しかし城の士卒は僅か500弱。常識で考えれば、豊臣の大軍に抗し得ない。

また忍城包囲以前に、他の北条一族の城ですら不戦開城しており、こうした情勢では士気が下がり、降伏しても何ら不思議はなかった。しかし、長親率いる忍城方は抗戦の道を選び、同調した領民までもが城に入り、総勢約3000に達することとなる。

6月5日未明、戦いは豊臣軍の攻撃によって幕を開けた。一般に、城攻めには城方の10倍の軍勢が必要といわれるが、豊臣方は数に不足はない。ところが攻め始めると、次々と死傷者を出す羽目となったのである。

城方の奮戦もさることながら、実は忍城は、関東七名城に数えられる要害だった。その最大の特徴は低湿地に築かれている点で、曲輪などの防御施設が沼地に点在し、城が水に浮かんで見えるので、"浮き城"と謳われるほどであった。

16世紀初期の記録にも、"水だらけの城"と記され、江戸時代には城内の往来に船が使われていたともいわれている。

このため、攻め手は周囲の沼地に足を取られやすく、忍城方は動きの鈍い敵に弓矢や鉄砲を浴びせ、さらに城から突撃して突き崩したのである。無論、三成もただ手を拱いてはいなかった。

忍城が低湿地にあることを逆手にとり、"水攻め"を敢行した。三成は、総延長28キロメートルともいわれる壮大な堤を僅か5日で築き上げ、6月16日には水は堤一杯となり、城への浸水が始まった。

ところが水攻めが奏功したかと思いきや、18日、激しい風雨で堤が決壊し、攻め手に大きな被害が出たのである。水攻めは大失敗に終わり、これをもって三成を戦下手とする見方がある。

しかし、水攻めは鋭い着眼点であるし、才知に長けた三成だからこそ、人手を集め、これほどの短期間で堤を完成できたのである。相手が恐るべき武将だったと見るべきだろう。