劣等感や孤独感は、人間が生きていくために必要な心の自然な防御反応。これらの一見ネガティブな感情に隠された役割を、産業カウンセラー片田智也氏が解説します。自然な感情と「怒り」との違い、そして怒りとの向き合い方を学ぶことで、自分の本当の感情を知ることができます。

※本稿は、片田智也 著『「メンタル弱い」が一瞬で変わる本 何をしてもダメだった心が強くなる習慣』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。


劣等感やコンプレックスにはどう対処するべき?

「職場で劣等感のようなものを感じてしまい、とくに大きなミスをしたわけでもないのに、なぜかまわりの目が気になることがあるんです」と言うのは入社2年目の男性。こういった劣等感に関する相談というのは少なくありません。

仕事のできる同僚に対してコンプレックスを感じたり、「見下されているのではないか」と不安になったり、カゲで悪口を言われている気がしたり、劣等感に悩まされるのはつらいものです。

実際、何も言われていないのに、何か言われているような、悪く思われているような気がしてしまう。それはあなた自身のホンネが人の目を介して感じられていると考えてください。

「他人がどう思っているのか」気になるからといって、他人に問題の軸を置いてはいけません。それはあなた自身の感情であり、「自分の問題なんだな」と認識することが解決の第一歩です。

実際、誰かに「見下されたようなこと」を言われたとしてもです。

あなたにいっさい劣等感がなければ、どんなことを言われても何も感じないでしょう。一瞬、イラッとしたり、傷ついたとしても翌朝になれば忘れている程度です。自分の内面にないものを認識することはできません。

他人の言葉やふるまいがどうであれ、「見下されているのかな」と気になるなら、それはあなた自身の感情として考えるべきでしょう。

「劣等感なんて感じなくていいんだよ」「気のせいだから心配しなくて大丈夫」というアドバイスはよく聞きます。

でも、私は反対です。それは意味があって生まれている自然な感情です。劣等感は「役割を失うこと」を警告してくれています。今あなたがわからないだけで、かならず「そう感じるにふさわしい理由」があります。

劣等感の警告をくみとって、あなた自身が行動を変えない限り、「見下されているのではないか」という疑念が晴れることはないはずです。

では劣等感は何を警告しているのか。人は一人で生きられないぐらい弱い動物です。私たちの祖先が生きて子孫を残せたのは集団で生活をし、生きるのに必要な作業をみんなで分担できたから。いいかえると、一人ひとりが役割をこなしていたからできたことなのです。

そんな環境で、もし役割がない、役割があってもほかにもっと優れた人がいるという状況は危険を感じさせるでしょう。「必要とされていない」からです。それが、劣等感という感情の意味になります。

大学生のころ、強烈な劣等感を感じた瞬間がありました。ちょうど3年生のになった春のこと。バイクで信号待ちしているとき、角の工事現場で同年代の人が働いているのを見かけた瞬間、なぜかとても情けなくて、恥ずかしくて、どこかみじめな気分になったのです。

当時の私はやりたいこともなく、ちょうど「どうやって生きるか」を考えることを避けていた時期でした。すでに社会的な役割を持っている人を見て、漠然とした危機感がそんな気分にさせたのでしょう。

いま考えればわかりやすい劣等感です。「このままだと何の役割もなくなるよ」と、必要とされないリスクについて警告してくれたのです。

当時はそれが劣等感だということなんか露ほども知りません。その後、ほどなくしてある資格を取るべく試験勉強を始めました。結果は不合格。ですが、その挑戦は劣等感という自然な弱さを補償する行動だったのでしょう。

前述の男性にそう説明をすると、「たしかに、誰でもできる簡単な仕事に甘んじている気がして、気になっていました」とのこと。

いまそんな特別な役割がなくても大丈夫。より必要とされる存在になるよう、何かしら行動している限り、劣等感に悩まされることもなくなります。


怒りを感じたら「本当の感情」を見つけよう

「カッとなってつい怒ってしまった」という経験は誰にでもあるものです。怒りというのは火がつくと手がつけられません。怒りをぶつけられる側も大変ですが、実は、怒っている本人も疲れるのです。

私自身、今でこそ穏やかな気持ちで生きていますが、以前はとても怒りっぽいところがあったのでそのつらさはわかります。

理不尽なこと、許しがたいことがあって怒りを感じてしまうのも自然な弱さ、といいたいところですが、残念ながら怒りというのは自然な感情ではありません。とても不自然な弱さです。

「怒りは第二感情である」という話を聞いたことはあるでしょうか。

たとえば、ある会社員の男性は「同僚が見ている前で上司から怒られたのが許せなくて。パワハラですよね!?」と怒りをあらわにされていました。

パワハラかどうかはさておき、怒りを感じるのは不自然。同僚の前で叱責されると、ふつうは情けない、恥ずかしい、みじめといった感情が湧くはず。なのに、それらはどこへ消えたのでしょうか。

屈辱感は「尊厳を失うこと」を警告してくれています。みんなの前で怒られるのはみっともないし、情けない、みじめで恥ずかしいもの。こういう感情なら自然な弱さといえます。

でも、もしこれら自然な弱さを認めることができない、不自然に弱っている状態、不自然に強がっている状態にある場合、情けなさ、みじめさという感情が別のものにすり替わる。それが怒りなのです。

彼の怒りの原因をひととおり聞いたうえで「なぜ怒られたのか」と質問してみました。すると「かなり初歩的なミスをしてしまった」と言います。

「ミスを指摘されて恥ずかしいと感じるならあなたは大丈夫」と自然な弱さを認めると、彼はこう言いました。「そうですね。もう二度と同じミスをしないよう気をつけたいと思います」。彼の声にもう怒りの感情はありませんでした。

自然な弱さを否定していると、ムダな自己否定が増えたり、不自然に強がったり、弱さを認められない、自信のない自分をつくることになります。

そんなとき自分の弱さを突きつけられたら何が起きるでしょうか。きっかけとなった他人に目が向きます。そうすると「相手が私を怒らせた」という錯覚が起きるのです。

「なんでみんな怒らせるようなことをするんだよ!」と、以前の私も本気でそう思っていました。目が見えづらくなってからの私は、とにかく批判的。自分でも「バカバカしいな」と思うぐらい小さなことでも怒りに火がつくのです。

部下の仕事が遅い、役所の対応が悪い、店員の態度が悪い、駅の階段が降りづらい、パソコンがいうことをきかない。私を「怒らせること」は際限なく、いくらでも見つかります。自分でも「何かおかしいな」とは思っていました。

そんなある日、目の病院に行ったとき、「いつまで待たせるんだよ!」と大声で怒鳴っている高齢の男性を見かけました。たしかに待ち時間が長い病院でしたし、イライラする気持ちはわかります。

でも実際に、そうやって公の場で怒りをぶつけている他人を見て、「自分もああいう感じなのかな」と情けなくなったのです。「このままではいけないな」と思えた瞬間でした。

今ならわかりますが、当時の私は劣等感とみじめさのかたまりでした。突然、目が見えづらくなったのです。そう感じるにふさわしい理由があります。でも私は自然な弱さを認めることができなかった。必死で強がっていた時期です。何がなくても常時「怒りモード」だったのでしょう。

でも、それが劣等感の第二感情などと気づけるはずもありません。「いったい誰の何が私をこうも怒らせるのか」と目を皿のようにして、怒りの原因を探していたのだと思います。

古代ローマ時代の賢者は怒りのことを「短い狂気」と表現しています。

狂気にとりつかれているときに冷静になることなどできません。本書を静かに読めている今がチャンスです。怒りの根っこにある自然な弱さが何なのか、探してみてください。向きあうべき自然な弱さがつかめれば、怒りの感情からも解放されるでしょう。