慶長5年7月25日

慶長5年7月25日(1600年9月2日)、会津の上杉討伐のため前日に下野小山まで進軍した徳川家康は、上方での石田三成挙兵の知らせを受け、諸武将を集めて今後の進退を諮りました。小山評定として知られます。現在、司馬遼太郎原作、映画「関ヶ原」が話題を集めていますが、この小山評定は、諸将の思惑が入り乱れて、じつに興味深いものがあります。
軍議は急造した3間四方の仮御殿の中で行なわれました。徳川家康、秀忠父子をはじめ、本多正信、本多忠勝、井伊直政ら徳川の家臣たち、福島正則、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至時、山内一豊ら、28将が集ったともいいます。 ほとんどの武将が上方に妻子を留めているため、石田三成が挙兵したとなれば、妻子らは人質になったも同然でした。 また、三成が豊臣家のために家康打倒を掲げて起ったとなれば、そちらに気持ちが傾く武将もいることでしょう。家康にすれば、大きな賭けでした。評定を開き、もし上杉討伐にともに出向いてきた武将たちが、上方に味方することになれば、もはや家康に勝ち目はありません。三成と戦う前に、上杉景勝の追撃を受けるおそれすらあります。
家康が評定の切り札としたのが、秀吉子飼いの大名としてあまりにも有名な福島正則でした。福島が家康に味方すると言えば、「あの福島ですら味方するのならば」と、諸将は雪崩を打って家康支持に回るでしょう。逆に福島が、上方に帰ると言い出せば、少なからぬ武将が同調する可能性があります。また、上方は後回しにして、上杉討伐を優先すべしと言われるのも、家康にすれば面白くないことでした。その間に、上方で三成の勢力が強固なものとなっていくはずだからです。
では、福島に「徳川殿にお味方申す」と言わせるには、どうしたらよいか。そこで家康が頼りとしたのが、黒田長政でした。黒田の弁舌で福島を説得させようとしたのです。黒田長政はいうまでもなく、秀吉の軍師・黒田如水の息子でした。石田三成嫌いで知られ、そのために家康に近づいたともいわれますが、むしろ長政が家康に接近したのは、父親譲りの先を見通す目であったのかもしれません。長政は、家康に味方して戦っても、秀頼に害が及ぶことはないこと、また三成の存在は、秀頼のためにならないことを説いて、福島を家康加担に導いたといわれます。
25日、評定が始まり、状況説明と、妻子が人質となっている以上、各々の進退は自由であるとする家康の意向が伝えられると、真っ先に口を開いたのは福島正則でした。
「大坂のことはいざ知らず、わしは内府とともに、三成めを討ち平らげると決めたぞ」
秀吉子飼いの中でも、特に秀吉に近かった福島の怒号は効果抜群でした。 打てば響くように、黒田長政が賛同の声を上げると、諸将は我もわれもと続き、上杉討伐軍は瞬時に、家康の東軍に変貌するのです。 「声の大きな者が勝つ」という集団心理は、今でもよく見かけるものかもしれません。
さらに、掛川城主の山内一豊が、自分の城を家康に提供することを申し出ると、これまた東海道筋の武将たちは口々に「拙者も」と、居城の提供を申し出ました。加えて福島正則は、所有していた非常用兵糧20万石を提供することも決めるのです。
以上は、よく知られる小山評定の顛末ですが、会議というものはその場の雰囲気に左右されやすいということの典型例かもしれません。ただし、この勢いに流されなかった武将が一人だけいました。美濃岩村城主・田丸忠昌。彼は三成に恩義を感じており、「三成討つべし」と諸将が騒ぐ中、一人この場を去って、西軍に味方することになります。家康は、進退は自由であると宣言した以上、田丸を咎めるわけにもいかず、はなむけとして刀を一振り与えました。集団の心理というものをよく心得ていた家康と黒田長政、それに惑わされることのなかった田丸忠昌。どちらも見事というべきかもしれません。
しかし、その場の勢いのようなものを生むのは一体何であるのか、考えさせられる場面でもあります。