《写真:伝飛鳥板蓋宮跡:皇極天皇の宮殿で中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台》

今年3月29日、63歳で亡くなられた山本博文氏(東京大史料編纂所教授・日本近世史)。92年「江戸お留守居役の日記」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞し、テレビ番組等でも活躍した。

山本氏が上梓した『[東大流]流れをつかむ すごい! 日本史講義』は、古代から現代まで、最新研究を取り入れつつ、歴史の重要ポイントを学び直す一冊となっている。

ここでは同書の一部を抜粋編集し、乙巳の変から大化の改新までの流れを追う。なぜ、蘇我入鹿は殺されたのか。「日本書紀」に隠された中大兄皇子の真の「動機」に迫る。


山背大兄王は抹殺された

推古天皇の後は、押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子が即位して舒明天皇になりました。この時、田村皇子と厩戸王の子である山背大兄王との間で、皇位が争われました。山背大兄王の母は蘇我馬子の娘、刀自古郎女でしたが、舒明も馬子の娘、法提郎媛を娶り、古人大兄皇子が生まれていました。

すでに馬子は没しており、蘇我家の当主は蝦夷でした。蝦夷は、山背大兄王とは仲が悪かったようで、古人大兄皇子の即位を見越して、田村皇子に乗り換えたのだと推測できます。

そのままいけば、舒明の後は古人大兄皇子ということになったでしょう。ところが641年、舒明が没します。山背大兄王という有力な皇位継承者がいたため、古人大兄皇子の即位では合意を得ることが難しく、舒明の后、宝皇女(押坂彦人大兄皇子の孫)が即位して皇極天皇になります。

蘇我氏では、蝦夷の子の入鹿が実権を握るようになります。入鹿は、古人大兄皇子が確実に即位できるようにするため、643年、山背大兄王を攻め、自害させます。『日本書紀』によると、それまでも入鹿は横暴な行動をとっており、この行動には、蝦夷さえ「こんな暴虐なことをやっていたのでは、お前の命も危ないぞ」と叱責したと言います。

ただ、このあたりの『日本書紀』の記述は、疑ってかかる必要があります。蘇我氏は、この後、滅びるので、すべての罪が蘇我氏にかぶせられている可能性があるからです。ここで確かなのは、有力な皇位継承者だった山背大兄王が抹殺された、ということだけです。