天災・戦争・恐慌……今回のコロナ禍以外にも、この国は様々な非常事態に直面してきた。月刊誌『歴史街道』2020年8月号の特集1では「『未曾有の危機』に立ち向かった日本人」と題し、日本人がいかにして困難を乗り越えてきたかに迫っている。ではそもそも、日本史においてはどのような危機があったのか。特集の中から、河合敦氏による近代史に関する解説を抜粋して紹介しよう。


河合敦(歴史研究家)
昭和40年(1965)、東京都生まれ。第十七回郷土史研究賞優秀賞、第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞。現在、多摩大学客員教授。著書に、『復興の日本史』『日本史は逆から学べ』『外国人がみた日本史』『禁断の江戸史』など多数。


感染症の猛威、ロシアの脅威…明治の危機

江戸時代に感染爆発をもたらしたコレラは、明治に入ってからも猛威をふるいます。明治10年(1877)、内務省は『虎列刺病予防法心得』を出し、患者が発見されたら警察に届け出る義務を課し、患者の家には「コレラ患者あり」という札を貼り、周囲を通行禁止にしました。

明治12年(1879)には、コレラが16万人以上に感染し、10万人を超える死者が出ました。大阪では、予防として濃厚石炭酸水を人力車にそなえさせ、乗客が降りるたびに車内に散布することを義務づけました。

デマや混乱もおこります。新潟では、コレラ退治のため井戸に毒薬を入れたという流言が広がりました。コレラを追い出すため、集団で隣村へ行進する疫病神送りも流行ります。制止すべく警官が出向くと、民衆は容赦なく襲いかかりました。同年だけでも疫病神送りから発展した暴動が20件以上あり、死者も出ています。

日本中が、コレラパニックに陥ったのです。大都市では、三本足の猿、老人の顔をした鳥などの絵が、コレラ除けのお守りとして爆発的に売れました。最近流行した妖怪「アマビエ」のようです。

今回のコロナ禍では、世界的に見ると多数の医療従事者が犠牲になっていますが、明治期の日本では、警官の殉職者が相次ぎました。伝染病が発生すると現場へ急行し、感染拡大防止のため交通を遮断、消毒にあたらなくてはならなかったからです。

当時、コレラの治療法は確立しておらず、患者の隔離、汚物処理、遺体の火葬に関与した警官が、罹患して亡くなるケースが多かったのです。

たとえば、明治28年(1895)に入野村高串(佐賀県唐津市の一部)でコレラが流行したさい、新人警官の増田敬太郎巡査は、不眠不休で消毒作業や遺体の埋葬にあたりましたが、四日目に自らも発症して亡くなってしまいました。まだ25歳でした。

臨終のさい増田は、苦しい息の中で「高串のコレラは私があの世へ背負っていきます。もうこの地には入れない」と約束したそうです。すると不思議なことに感染は終息し、以後、一名の患者も高串から出ることはなかったといいます。

感謝した住人は増田の遺骨を村の神社に埋葬し、祭神として祀りました。今も遺徳をしのぶ神社の例大祭には、住人や警察官が参列するそうです。

日露戦争も、大きな対外危機でした。ロシアの南下政策により、幕末に対馬の一部が占拠されたり、樺太から日本人が追い出されたりしました。政府は北海道に屯田兵を配置してロシアを警戒しましたが、日本人の間にロシアに対する恐怖が植え付けられました。

明治24年(1891)、来日したロシア皇太子ニコライが警備の巡査に襲われて負傷する(大津事件)と、国民は事件を口実にロシアが攻めてくるのではないかと恐れ、政府や国民は平身低頭謝罪に徹しました。

外国人はこれを「恐露病」と笑いましたが、日清戦争で獲得した遼東半島をロシアの圧力で返還させられると、「恐露」は「憎露」に変わります。

しかもロシアは、遼東半島(旅順、大連)を租借という形で支配下に置き、北清事変で出兵したロシア軍はそのまま満州に居すわり、全土を不法占拠したのです。また、朝鮮では親露政権が誕生します。こうして満州、朝鮮がロシアの影響下に入ったのです。

日本政府と国民は、「臥薪嘗胆」を合い言葉に一丸となって軍拡に邁進、明治35年(1902)には日英同盟を結びます。

政府は、軍拡と同盟でロシアを牽制し、ロシアの満州支配を認めるかわりに、朝鮮半島における日本の指導権を認めさせようとしました。正面からロシアと戦っても勝利は難しいと考え、外交的解決を目指したのです。

ところが、国民は違いました。新聞報道のあおりもあって主戦論が急速に高まります。国民の声を抑えきれなくなった政府と軍は、勝算も戦費のメドも立たないまま、大国ロシアとの戦争に突入してしまいました。

結果、莫大な犠牲と戦費を払って辛勝しましたが、賠償金は1円も獲得できませんでした。日本と異なり、ロシアにはまだ戦う余力があったからです。けれど、国民は納得しません。10年間も軍拡のために増税に耐え、戦争でも必死に協力し、8万という兵士の犠牲を払ったからです。

このため講和条約が調印された日、東京の日比谷公園で講和反対集会が開かれましたが、集まった人びとは内務大臣官邸や交番、政府系新聞社を襲撃、大騒動に発展しました(日比谷焼き打ち事件)。

暴動は各地へ広がり、とくに首都は無政府状態となったため、桂太郎内閣は戒厳令を発して軍隊を出動させざるを得なくなりました。ちなみに、この事件から大正デモクラシーが始まったといわれます。

戦後、日本は莫大な借金を背負い、戦争の痛手により農村は荒廃、村や近隣の共同体統合が崩れ、多くの国民は気力を失いました。国家に対する不信感から、社会・共産主義や個人・自由主義にあこがれる者も急増しました。ロシアの南下という危機は去ったものの、政府による国民の統治が危うくなったのです。