日本の出生数が予測よりも急減していると報じられ、その要因に氷河期世代が苦境にあることを指摘する声も出ている。

取り残された世代、ロスト・ジェネレーション。バブル崩壊の影響で新卒採用数も激減。未曾有の就職難に見舞われ、就職氷河期世代とも呼ばれる。正社員になれずに、悪待遇を耐えざるを得ない人が大量に生み出された。結婚や子育てもままならない環境に追い込まれた人も多い。

『松田さんの181日』で第93回オール讀物新人賞を受賞するなど活躍を続ける作家の平岡陽明氏も1977年生まれのロスジェネ世代。このたび発表した新作『ロス男』(講談社刊)では、40歳のフリーランスのライターを主人公とし、時代の間に取り残された世代をテーマとしている。

「小説のほうが、リアルを伝えるにはいい」と平岡氏自身も語るように、作中では氷河期世代の現実が生々しく描写されている。本稿ではその一節を紹介する。

※本稿は平岡陽明著『ロス男』(講談社)から一部抜粋・編集したものです。

無駄遣いをしなくても、お金は足りない

みじめな気持ちになる秘訣は、自分が幸福かどうか考える時間を持つことだ──バーナード・ショー。

図書館の名言辞典でこの言葉を見つけたとき、僕は仕事の手を止めて、自分が幸福かどうか考え込んでしまった。

もちろん僕が幸福とは言えなかった。親が遺した平屋で独身生活を送る、キャッシング常習者の40歳である。

それなりに仕事をして、無駄遣いをしなくても、定期的にお金が足りなくなるのだ。恋人もいない。とりわけ半年前に唯一の肉親である母を亡くしたことは痛恨事だった。

いま僕が取り組んでいるのは、T社の布井という書籍編集者から貰った仕事だった。布井は僕を呼び出して告げた。

「こんど名言集を出すことになったよ。どーんと千個。名づけて『古今東西名言集 1000』。よろしくね」

「僕が千個をピックアップするんですか?」

「うん。図書館の名言辞典か何かで、ちゃっちゃと拾ってきてよ」

いつもながら惚れぼれする丸投げっぷりと、ストレートなタイトルだ。葬儀などの出費で口座残高は尽きかけていたから、もちろん仕事は引き受けた。

自分の住む京急線沿いの図書館に通ったら、気分がヘコむことは目に見えていた。それでなくとも最近は母の後始末で役所などを駆けずり回り、地元に泥み過ぎていたから。

そこで芝公園のみなと図書館へ通うことにした。せめてわが身だけでも都心に置いておきたかった。


そろそろ本当の自分の人生を起動したい

僕は〈仕事〉〈金銭〉〈悲哀〉〈結婚〉〈幸福〉など大まかなカテゴリーを設けて、ピックアップ作業を始めた。

「希望を抱かぬ者は、失望することもない」

これもバーナード・ショーの言葉だった。僕は拾い始めて数日で、この十九世紀生まれのイギリスの劇作家が、どうやら名言の宝庫であるらしいと気がついた。たとえばこんな言葉。

「人生には二つの悲劇がある。一つは願いが叶わぬこと。もう一つはその願いが叶うことだ」

いかにもイギリスの皮肉屋っぽいなと感じた途端、

「正確に観察する能力は、それを持たぬ者からは皮肉屋と呼ばれる」

とやられる。近くにいたら、さぞかし鬱陶しい人だったろう。

ところが「結婚する奴は馬鹿だ。しない奴はもっと馬鹿だ」とか、「結婚を宝くじに喩えるのは間違っている。宝くじなら当たることもあるからだ」なんて言葉を見つけると、案外愉快な人だった気もしてくる。

ちなみに僕の母は、僕が三歳のときに父が「外れくじ」だったと悟り、一人で育てていく覚悟を固めた。父の消息は知らない。

この日も朝から黙々と名言を拾い、気がつくと昼過ぎだった。僕は新鮮な空気を吸うために裏の芝公園へ出た。

ベンチに座り、ぽかんと空を見上げる。
ここの空は不思議と広い。

空に心が吸い込まれているあいだは、自分が一人ぼっちになってしまったことも、晩メシのことも忘れている。

突如、背後に母の気配を感じた。振り向き、誰もいないことを確認して、苦笑いする。【これ】がきたのは久しぶりのことだ。亡くなった当初は頻繁にきたのだけれど。

──去る者は日々に疎しってことかな。

園内では走り回るわが子を追いかけるママさんたちの姿が目についた。僕はもう一度空を見上げ、そろそろ本当の自分の人生を起動したいと思った。

こんな雑念が浮かんだら、休憩を終えるべき合図だ。僕はベンチから立ち上がった。