加藤一二三九段。「神武以来(じんむこのかた)の天才」と称され、中学生にしてプロ棋士に。藤井聡太七段(2019年現在)に破られるまで、62年間最年少棋士の記録を持ち続ける一方、2017年には最年長勝利記録も樹立。将棋界において数多の記録を樹立したレジェンド棋士である。

その一方、その天真爛漫なキャラクターと語り口から"ひふみん"の愛称で親しまれ、2017年の引退後も将棋の解説にとどまらず、各メディアに引っ張りだこの人気ぶり。

そんな加藤一二三さんが上梓した新著『感情の整理術123(ひふみ)』では、「怒ったら損だから絶対に怒らない」と決めて、勝負の世界で長年実践してきた「感情の整理術」を披露しつつ、家族に対する思いも語っている。

本稿では同書より、加藤一二三さんの家族への深い愛情を記した一節を紹介する。

※本稿は加藤一二三著『感情の整理術123(ひふみ)』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです。

引退会見を一週間後に開いた本当の理由

平成29(2017)年6月20日、わたくしが負けて家に帰り、妻に負けたと言ったら、なんと驚くことにネクタイを持ってきてこう言いました。

「お疲れさま、これプレゼント」

わたくしは「ありがとう。まだこれから先があるからね」と言ったというのが、引退当日のありようです。引退の日、将棋会館には報道陣が詰めかけていまして、それこそ一言とマイクがきたけれども、わたくしはこう思っていました。

わたくしは、14歳のときから戦って、明日負けると思って戦っていません。

引退の日のことも、負けると思って戦っていないんだから、引退になったその時点で記者会見をするつもりはまったくない。だって、負ける気はないんだから、勝つつもりで戦っているんだから。

それともう一つは、苦楽を長年ともにした妻に、負けたことを真っ先に知らせるのが当然と思っていたのです。それで、妻に負けたということを伝えてから、約1週間後に記者会見をしたというわけです。


タクシーの止まる音を聞くのが嫌だった家族たち

勝負は、つねに家族とともに挑んでいたといってもいいと思います。

対局の前の日は、妻が食事の用意をしてくれますし、対局の日は、妻は基本的に外出はしません。家で祈っているわけですよ。

基本的に勝負の仕事はどの仕事も大変なんだけれども、夫人が対局の勝ち負けを心配するあまり、対局の日は胃が痛くなったということを語っているライバル棋士もいました。

対局の前の日は、ベストコンディションにもっていくために、妻や家族はいろいろと努力をし、対局の日は、戦っているわけですから、家で祈っている。ポルトガルでは、漁師の夫が漁に出ている間、家に残された妻たちは、ろうそくを灯して無事を祈っていたという話を思い出します。

どの仕事もそうなんだけれども、やはり長年、苦楽をともにしてきている夫婦なので、負けたというのを最初に報道陣に向かって記者会見をしてから、妻に帰ってきたよ、と言うのではおかしいと思っていたんです。

今でも妻と子供が言うんですけれども、対局後、わたくしは夜遅くタクシーで帰るのですが、タクシーが止まったとき、あるいは誰か別の人が乗ったタクシーが止まる音を聞くときが、一番嫌だったと言います。

つまり、タクシーが止まったということは、わたくしが帰ってきたということで、まもなく勝ちか負けかを聞くことになるわけです。だから、タクシーが止まった瞬間が一番嫌だったと、今でも語っていますね。