放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、生年月日が1か月違いという“音楽の巨人”、大滝詠一にまつわる思い出をつづる。

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 日本の音楽シーンの中で最も名盤と思われるのが大滝詠一の『A LONG VACATION』。1981年の発売から40周年という事もあって、NHKのBSやらニッポン放送で特番。あのはにかんだような笑顔が忘れられない。

 1948年、私が生まれた1か月後に大滝は生まれた。“音楽の巨人”ぶりは誰しもが認めるところではあるが、“演芸の巨人”“ラジオの巨人”でもあった。膨大過ぎるその知識には、めまいすら覚えた。

 日本の若者文化を塗りかえた「ビートたけしのオールナイトニッポン」と「オレたちひょうきん族」がスタートした1981年、『ロンバケ』は世に出た。1989年私の昼のラジオがスタートすると、生放送中でも「あの曲は○○の方がいい」とか「誰々の漫才のことも言わなくちゃ」など年中アドバイスをもらっていた。同じ年に生まれた大衆芸能好きという同類の匂いを感じていたのだろう。

 ある日「福生の私の家に来ませんか?」とお誘いをうけた。えっ!? 伝説とも言える福生の米軍ハウス、大滝の基地へ行けるのか。「まず手土産は何にするか」これを東京人の私は考えた。

 折角逢えるんだから喜んでもらえるものをと三日寝ずに考えた結果、先物買いの大滝ならこいつらの事は好きだろうと、若き“浅草キッド”の二人を手土産に訪れた。「お口に合いますか、どうですか」と若手の漫才コンビを差し出すとひと言「さすが。私の大好物!」と喜んだ。きけば大阪でキッドがやっているマニアックな番組までチェック済みだった。これは1992年の7月16日のこと。

 この時の描写を克明に書き残しているのが、大衆芸能の記憶と記録に関して際限も門限もない水道橋博士。博士のライフワーク『藝人春秋』の「2」と「3」がたて続けに文庫化された。パラパラめくると“大滝詠一と高田文夫の邂逅”について章を立て、たっぷり書かれている(他の章では私とたけしの息子との再会の様子も書かれている)。芸人作家は色んな現場に立ちあえるし、それを描く筆芸も持っている。なんだかとても大滝詠一に会いたくなった。

 大変だったなあ2011年。震災があり、その年も押しつまって談志が亡くなり、「お別れの会」の時、一の子分・森田芳光の死去を知らされ、年があけ2012年「平成中村座」を使って「談志の会」を中村勘三郎と私がMCで開き、4月に私が心肺停止で入院。夏に出てきたら勘三郎が入院しそのまま死去。そして2013年の大みそか、大滝詠一の死を知らされる。永い休暇に入った。

※週刊ポスト2021年4月9日号