お笑い第7世代がテレビを席捲する時代に、もし昭和のお笑い番組が復活したら若い世代はどんな反応をするのだろう。そんなふうに想像する往年のお笑いファンも多いのではないだろうか。コント55号とザ・ドリフターズが「土8戦争」と呼ばれる視聴率競争をしていた時代、「オレたちひょうきん族」でビートたけし、明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎らが暴れまわっていた時代、それぞれ自分の若き日と重ねて思い出すのではないか。『週刊ポスト』(4月26日発売号)では、「昭和のライバル秘話」として土8戦争を取り上げているが、そこで取材に答えたドリフメンバーの仲本工事に、改めてドリフの思い出、特に今は鬼籍に入ったいかりや長介、志村けんとの思い出を聞いた。

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 ドリフはもともと、バンドやりながら笑いもちょこちょこやっていて、僕らが入った時に、お笑いバンドにしようという考えがいかりやさんにあった。僕もいかりやさんに入らないかと誘われたんです。ちょうど学習院大学を卒業する頃で、親父は「大学まで出て不良のようなことはやるな」と強く反対していたんです。当時はサラリーマンが一番優遇されていた時代で、定年まで勤められるでしょう? やっぱり親父は会社員か公務員になることを願ってたんじゃないかなあ。

 そうしたら、いかりやさんが家まで来て親父を説得してくれて、それで晴れてドリフに加入することになった。大学4年生の12月に誘われて、翌年の1月に入ったのかな。卒業間近のタイミングで、もしそれで卒業できなくなってたらどうしたんだろうなと思うよね。

 いかりやさんは親父を説得する時に、「工事がやめる時はドリフターズがやめる時だから、それまでは自分に任せてくれ」という言い方をしたそうだよ。それに、いかりやさんのあの顔で迫られたら、親父も「うん」って言わざるを得ないじゃないですか(笑)。

 もともと音楽自体はやりたかった。僕は中学の頃から独学で勉強して譜面も書けたから、音楽担当でってことだったはずなのに、結局コントばかりやらされて、音楽はぴたりとなくなっちゃった(笑)。

 皆さんが知ってるドリフターズというのはお笑いバンドとしてスタートした形態だけど、それ以前にもドリフは存在していた。井上ひろしさんとか木の実ナナさんがメインで歌ってたんだよね。それをコメディバンドに再編成したのが僕らの時代だけど、本当は結構歴史のあるバンドだったんだよ。

 荒井注さんが辞めて、志村が入った時、一番感じたのは若返ったな、ということでした。それまでのドリフの昭和の音楽と、志村が好んでいた音楽とではテンポが違うんですよね。志村のほうがアップテンポで他のメンバーが昭和のリズムだから、ちょっと合わなくて1年くらいは志村が苦労したと思う。どうしても志村だけ浮いちゃうんだよね。

 でも、志村が「カラスの勝手でしょ」をやった時に、あれはテンポがゆっくりじゃないですか。それがまさにドリフのテンポだったからぴったりとハマって、それからは志村が自分の実力を発揮するようになっていった。それで、今度は早口言葉をやろうとか、だんだんリズムがアップテンポになっていった。

 ドリフの笑いというのは、わかりやすくて真似しやすいんですよね。だから皆さんが喜んでくれたんだと思います。大人向けとか子供向けとか、そういうことも考えていませんでした。今はいろいろやれないことがあるでしょ? 僕らがやってた食べ物を粗末に扱うコントとかね。もちろん時代の違いなんだけど、ドリフが俗悪番組だとか言われながらも許されていたのは、例えば食べ物を粗末に扱ったとしても、コントの中で必ず怒られるんだよね。やっちゃいけないことをやるから面白いんだけど、親の代わりにいかりやさんが必ず僕らを怒るんだから、子供だっていけないということはわかるんです。そして、そのいかりやさんはメンバーからどんどん浴槽に落っことされたりする。上司をやっつけるんだから、サラリーマンも痛快に思いながら見てくれたんじゃないかなあ。