音楽誌『BURRN!』編集長の広瀬和生氏は、1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接してきた。広瀬氏の週刊ポスト連載「落語の目利き」より、弁財亭和泉が真打昇進襲名披露興行で掛けた『影の人事課』の面白さについてお届けする。

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 落語協会の真打昇進襲名披露興行が上野鈴本演芸場3月下席からスタートした。三遊亭粋歌改め弁財亭和泉の記念すべき大初日は22日。この日、和泉が高座に掛けたのは『影の人事課』だった。

 この作品に僕が初めて出会ったのは2013年6月、春風亭一之輔の独演会に当時二ツ目の粋歌がゲスト出演した時だった。自身のOL経験を活かして創作したこの噺は一之輔ファンで埋め尽くされた満員の客席を大いに沸かせ、そのあまりの面白さに、僕は打ち上げで主催者に「粋歌さんの独演会やりましょうよ!」と持ちかけた。それで実現したのが2013年12月スタートの「粋歌の新作コレクション」である。“女性目線の新作落語”の演者として飛躍するきっかけになった名作『影の人事課』は、まさに大初日の演目に相応しい。

 主人公は、毎日深夜まで一人で残業している総務部人事課のOL、松浦。部下の山口は勤務中にお気に入りのスイーツの感想をSNSに上げるダメ男で、専務の息子なので部長に甘やかされ仕事もせず横柄な態度。部長は毎日接待に明け暮れる典型的なパワハラ/セクハラ上司。彼らの皺寄せで残業どころか休日出勤も多いが、松浦が会社に申告する残業時間は実際より圧倒的に少ない。

 そんな彼女を優しく見守る管理人のおばさん、タチバナ。その本当の顔は、この会社に潜入した“影の人事課”だった。関連商社の総務部人事課で40年、部長職を務め上げた彼女は退職時に役員待遇を断って“影の人事課”を志願。「社内の問題を解決するのが人事課。でも人事課はどこに悩みを持ち込めばいいの? 一人で問題を抱え込んでいる人事課の人たちに、私は救いの手を差し伸べたい」とタチバナは言う。

「こんな毎日イヤなんです。でも、あの人たちに何を言っても無駄」と諦めている松浦に、タチバナは「優しく言ってるからよ。ブチ切れてやりなさい」と言う。「できるはずよ。あなた、昼休みに落語聴いてるわね。残業中に啖呵を切る練習してたでしょう? 私がついてるわ。今度何かあったら『この丸太ん棒!』って言ってやりなさい」

 松浦が落語にハマっていると見抜いたタチバナは落語通、それも二ツ目の会に通うようなマニアだった。

 翌朝、部長と山口の数々の暴言に耐えかねた松浦は、ついに『大工調べ』ばりの威勢のいい啖呵を切る。そこへ現れたタチバナ……。

 いくら「働き方改革」が謳われようとも“嫌な上司とダメな部下”問題やサービス残業はなくならない。『影の人事課』は、そんな現代社会で普遍的な共感を得る傑作だ。

【プロフィール】
広瀬和生(ひろせ・かずお)/1960年生まれ。東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接してきた。『21世紀落語史』(光文社新書)『落語は生きている』(ちくま文庫)など著書多数。

※週刊ポスト2021年5月7・14日号