今年でソロデビュー50周年となった“ジュリー”こと沢田研二(73才)。今年5〜6月に行われた記念ライブのチケットは即完売し、9〜11月の追加公演も発表され好評だ。さらに、昨年亡くなった志村けんさん(享年70)の代役を引き受けた映画『キネマの神様』(公開中)も話題で、73才を迎えたいまも、その人気は衰えない。

 そんなジュリーは、1977年に『勝手にしやがれ』で日本レコード大賞を受賞。ビジュアル重視の楽曲で《全盛期》に入ろうとしていた。

 金色のキャミソールを着て歌った『さよならをいう気もない』、軍服姿で歌う『サムライ』、血染めの包帯をした『LOVE(抱きしめたい)』、『カサブランカ・ダンディ』では、ウイスキーを口に含んで吹く姿に釘付けになったものだが、パラシュートを背負って歌う『TOKIO』は、圧巻。テレビにも映えた。

 折しも『ザ・ベストテン』(TBS系)が始まった1978年には、『輝く! 日本レコード大賞』の2連覇をジュリーは目指していたという。

 その年の2月にボーヤ(付き人)となった西澤守さんと50年来のファンで『沢田研二大研究』(青弓社)の著者である國府田公子(こおだ・きみこ)さんに、当時についてふり返ってもらった。

 * * *

歌番組とコンサートに明け暮れた日々

國府田さん(以下、國):西澤さんは当時のファンの間では“守くん”と呼ばれ、原田真二をシャープにしたような感じでした。スリムで長髪で、かっこよかったですね。

西澤さん(以下、西):ありがとうございます。地方でぼくは沢田さんと間違われて、影武者気分だったのを思い出します(笑い)。

國:1978年2月から付き人というと、曲は何から?

西:ちょうど『サムライ』を発表した頃です。そこから『ダーリング』『ヤマトより愛をこめて』『LOVE(抱きしめたい)』『カサブランカ・ダンディ』とやりましたね。

國:1978年のコンサートでは、上半身裸のジュリーが体に金粉を纏(まと)っていたでしょ?

西:沢田さんの肌にバラの絵の大きなスタンプを青インクで押して、その花びら部分に綿棒で赤インクをつけながら1時間くらいかけてバラの花びらを描いたんですよ。アンコールでは、舞台の袖でぼくともう1人が上半身裸の沢田さんに金粉を塗りました。

國:えっ! 手で塗ってたの!? その手になりたかったわ〜(笑い)。

西:ふだんは化粧品やアクセサリーの用意と、衣装替えを手伝うのが、私のメインの役割でしたね。『憎みきれないろくでなし』のときは、カミソリのアクセサリーとか、たくさんあったのですが、『ザ・ベストテン』で曲が複数ランクインすると衣装ケースを2つ持って行ったりしましたね。『LOVE(抱きしめたい)』のときは、雨の演出で革のコートをスプレーでズブ濡れにして、手に包帯を巻いて、その上に赤チンをつけるなど曲ごとに決め事が多くありました。

國:当時、各局での歌番組は大変でしたか?

西:そうですね。収録がある日は、朝、世田谷の自宅に車で迎えに行っていました。家に着くと、奥様(当時、伊藤エミさん)が玄関先に用意してくださった衣装や化粧品、アクセサリーなどを積んで、沢田さんを乗せ、テレビ局に向かうんです。

 当時のテレビ局は個室があるわけではなく、大部屋に板張りの化粧コーナーがあるだけ。そこに化粧道具などを用意しておくと、沢田さんが来て自分で化粧をしてアクセサリーをつける。終わったら「すぐ片付けて。ほかの人が使うから」と、偉ぶらないところが沢田さんらしかった。

國:驕らない、そういうところはジュリーよね。

西:はい。年下や新人相手にも敬語に近い言葉でいつも話すし、男気があって筋を通し、好き嫌いなく、物を大切にする人ですね。

オフは『ジュリーズ』で草野球に興じた

國:コンサートツアーとテレビの歌番組で、当時忙しかったんじゃない?

西:あの頃のコンサートツアーって昼夜2回公演でした。全国ツアーで行けなかった近場は、土日にコンサートを組んでいました。ただ、専属デザイナーだった早川タケジさんの衣装は繊細で、地方でストッキングに刺繍やスパンコールなどがついた衣装がほつれたりすると、ぼくがテグスや針金で直していました。最初は緊張もあって、手の震えが止まりませんでしたね。

國:当時の目が回るような忙しさの中で、記憶に残る思い出はありますか?

西:北海道のツアーから帰って来たときのことですね。「最近食べてないから、しゃぶしゃぶでも行こう」と沢田さんが赤坂の店に連れて行ってくれた。それが初しゃぶしゃぶだったので、いい思い出になっています。それと、いつも助手席に乗る沢田さんが、『ダーリング』発売の直後に一度だけ後部座席に乗り、会話をしなかったことがありましたね。

 それは沢田さんのお母さんが亡くなった日だったんです。山梨でコンサートを終えて帰京後、運転手と車で京都の実家へ直行。仕事があったので朝には東京に戻り、葬儀は数日後でした。

國:ジュリーは野球少年で、スターになってからも草野球を続けていたから、守くんが採用されたのは、野球のおかげだったりして……。

西:はい。「自分、野球できる?」と沢田さんに聞かれて、「大阪の大鉄高校で野球をやっていました」と答えたので、おそらく(笑い)。

 その期待に応えて、沢田さんの草野球チーム『ジュリーズ』ではホームランを打ったこともありますよ。1979年1月末で、付き人はやめましたが、その後も、ぼくが所属していた『ウォーターエンタプライズ』という事務所の草野球チームで、『ジュリーズ』と対戦したことがあります。そのときのメンバーは、ショーケンや大友康平さん、永井龍雲さんなど豪華でしたね。

國:私は広島にいた時期があるのですが、当時はファンクラブ広島・山口支部に入っていて、ジュリーが全国ツアーで広島に来るときは、ぜひプライベートで野球大会をしてほしいと、関係者にお願いして、当時の所属レーベル『ポリドールレコード』の広島営業所チームと『ジュリーズ』が対戦したんです。おかげでユニフォーム姿のジュリーを近くで見ることができ、感激しましたね。

西:沢田さんの背番号は26なんですが、それは26才で野球チームを作ったから。毎日忙しくて大変でしたが、私には楽しい青春の日々。憧れの沢田さんの戦友でもあった一年でしたね。

【プロフィール】
西澤守/タンゴ歌手。1958年生まれ、北海道函館市出身。19才からジュリーの付き人を1年間務めた後、歌手・俳優デビュー。現在もタンゴ歌手として活躍中。

國府田公子/1954年生まれ、広島県呉市出身。ジュリーファン歴53年。WEBサイト『Julie’s World』を運営・主宰。著書に『沢田研二大研究』(青弓社)がある。

取材・文/北武司 写真/女性セブン写真部

※女性セブン2021年9月2日号