相撲ブームが沸騰している。「謎のスー女」こと尾崎しのぶ氏が、現在相撲コラムを週刊ポストで執筆中。今回は、アキレス腱断裂から復活した安美錦について尾崎氏が綴る。

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 昨年のアキレス腱断裂に、もう終わりだ、と思ったことを恥じる。二場所ぶりで土俵に復帰した九月場所、張りのなくなった身体を見て「無理しないで」と思った自分も、腹立たしい。先場所は、千秋楽まで十両優勝をあらそった。こんなに活躍されると、また「アミー!」と黄色い声でさけんでしまう。

 女性男性問わず、安美錦を好きでない相撲ファンに会ったことがない。私は、安美錦を嫌いな人に会いたい。どの点を嫌っているのかを聞けば、それはまた安美錦の強烈な個性であると知ることができる。そしてさらに惚れなおすだろう。

 ただし、相撲ファンに限らなければ、安美錦を好きでない人はいた。顔も見たくない、すれちがうことさえ嫌だと、安美錦をまるで悪魔のように避けていたのは高見盛(現・振分親方)。現役中の高見盛は、翌日の対戦相手についての質問は決してしないでください、と記者にお願いしていた。

 テレビで発表されるときは目をそらし、付け人に耳をふさいでもらっていた。学生時代から、研究する時間があったら自分を鍛えたほうがマシである、という信念を持っていたそうだ。

「不安はどんな相手に対してもあるし、研究したとしてもそれを拭えるものじゃない。だったら自分の相撲を信じるしかない」と後年語っている。その中でも、明日対戦すると知った夕方から翌日までの二十四時間を悪夢に変える存在が、安美錦だったのではなかろうか。無理もない。安美錦には十一連敗していたのだから。

 ひところの琴欧洲も、安美錦との対戦を恐れていた。二〇〇七年九月場所から二〇一〇年十一月場所まで、安美錦と琴欧洲の対戦は十七回あった。結果は十二勝五敗。これは大関琴欧洲の側の成績ではない。安美錦が十二勝している。

 私は、明日は安美錦と琴欧洲の取組があると知ると「ああ、琴欧洲かわいそうに」とつぶやいていた。控えている土俵下や仕切りの最中、琴欧洲の顔は『ちびまる子ちゃん』の花輪君の、青ざめて顔面に縦線が何本も描かれている表情に見えた。安美錦に後ろに回られ、乙女走りで土俵外まで逃亡した琴欧洲の姿は、今も鮮やかな記憶として残っている。

 二〇〇八年五月場所、琴欧洲が圧倒的な強さで優勝した輝かしい場所で唯一の黒星をつけたのも、横綱の朝青龍でも白鵬でもなく、安美錦だった。十一日目に朝青龍、翌日には白鵬を破り初日から十二連勝のあと、十三日に安美錦により一敗。十四日目と十五日目は勝利し十四勝。持ち直したのではない、一敗して気が楽になったのでもない。琴欧洲は安美錦に向き合ったときにのみ、ザザザと心に雨が降っていたと思われる。

 背中にも足の裏にも目があり、土俵を味方につける。立ち合いに変化した場合も、安美錦にいたっては卑怯なことではない。観客の目に「相手が駆け引きに負けた」と映る。朝青龍戦では、自分のペースに巻き込んでなめらかに押し出した。

 安美錦の相撲は、ときどきシルヴィ・ギエムのバレエを思い出させる。共通しているのは「いったい、目の前でなにが起こっているのだろう」とショックを受ける点。もはや相撲ではないのかもしれない、とすら思う。「安美錦流」という、芸術に昇華してしまっている。ゾクゾクしたくて、安美錦の登場を待っている。(この項続く)

※週刊ポスト2017年7月21・28日号