角界が揺れる中、「謎のスー女」こと相撲女子の尾崎しのぶ氏が、相撲コラムを週刊ポストで執筆中。相撲界は酒席の事件で揺れているが、過去の名力士たちは酒をどう付き合ってきたのか? 尾崎氏がつづる。

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 十一月場所十両入りした隆の勝は酒が全く飲めないと相撲誌に書いてあった。日馬富士の真っ赤な目をした優勝翌日会見が記憶に新しいだけにおどろいた。しかし思い出せば琴奨菊は奈良漬けすらアウト。松鳳山も酒を飲まない。安芸乃島はウイスキーボンボン一個食べただけで寝てしまう下戸だった(安芸乃島の親方は、兄・二子山親方の厳しさへの反感から兄弟子に飲酒を強要され内臓を悪くした大関・貴ノ花だったから、自分の弟子の育成には気遣いがあったのだろう)。

 それでも力士には飲み放題を適用させない居酒屋もあると耳にしたり、白鵬がテレビでものすごいスペシャルカクテル(ウイスキーのビール割りシークワーサー風味)を披露していたことなどが力士は酒好きとの印象を残す。だからこそ、新十両力士を華々しく紹介する質問の中に「酒量は?」とあるのだ。

 力士の酒のエピソードは数多くあるが、強烈なのは太刀山の好敵手だった駒ケ嶽。日本酒を毎日六升飲んでいた。そして現役中の一九一四年、巡業地の茨城でどぶろくを飲んだ後日向で気持ちよく昼寝をしていたところ、胃の中のどぶろくが発酵して毒になって腸と脳に回り急死。享年三十三。

 横綱を嘱望されていた時期もあった実力者だったが酒が好きで体を壊し、負けがこんではまた酒を飲んだ。その末に好きな酒のせいで亡くなった。周囲や遺族の気持ちはあろうが、駒ケ嶽にとっては愛した酒との心中にあたるように思う。

 悲しい駒ケ嶽とは違い、ニヤリとさせてくれるのは江戸時代のスーパースター雷電。雷電が現役時代より記した日記『諸国相撲控帳』に、こんな話が書いてある。

 享和二年(一八〇二年)、長崎で清の学者の陳景山と出会う。飲酒に関しては李白の生まれ変わりであると自称する陳先生と飲み比べをした。互いに酒を注ぎ合い気付いたときには一斗ずつ飲み干していた。先生はここでダウンしたのだが、雷電はさらにもう一斗飲み鼻歌を歌いながら高下駄で宿に帰った。

 三十六リットルの日本酒を飲んで酩酊しないとは、いくら百九十七センチ百七十キロでもおどろきだ(巨人でないのに十八リットル飲んだ陳先生も李白を名乗るだけのことはある)。翌朝目覚めて雷電の様子を聞いた陳先生は書と絵を贈ったという(黒星のほとんどは引き技だった雷電。二日酔いの疑惑を私は持っている。どれだけ飲んでそうなったのか知りたい)。

 寛政二年(一七九〇年)の初土俵から二十一年の現役生活で、黒星はたったの十個。三十四場所に出場したうち優勝は二十八回。通算成績は二百五十四勝十敗十四あずかり二引き分け五無勝負で、勝率は九割六分二厘。年に行われる場所数も日数も今とは異なっているから単純に比べられはしないのだが、白鵬ですら現在まで勝率八割に満たないのだから今後塗り変えられる数字ではないだろう。

 雷電の死から三十七年後に出身地信濃国(長野県)に建てられた「力士雷電之碑」には、佐久間象山による文が彫られている(死後二十七年と書かれているのは、弟子吉田松陰の密出国未遂に協力したとして謹慎させられる前にしたためた文だと偽るためだったという説がある)。間違っているかもしれないが、私なりに読んでみた。

〈雷電の力は比べるものがなく、世と間を空けて一つだけとび出している。天はあなたを惜しんでいる。私は士人であるけれど、ずば抜けることができない。あなたの為に碑を作りながら恥じ入り心があつい〉

 佐久間象山が生まれる直前に雷電は引退。現役をその目で見ていなくても、語り継ぎの中に同郷の英雄の輝きは感じられたのだろう。深い尊敬がこめられている。相撲ぶりにしろ酒にしろ雷電の無類の強さは、絵や文に称えずにはいられない魅力を持っていたということ。酒はやはりいいものだ。飲み会の多いこの季節。くれぐれも駒ケ嶽にならないよう気をつけながら、ほどほどに仲間と飲みたい。

※週刊ポスト2017年12月22日号