まるでトップアスリートのようなスピードと正確さで、「魂の十割蕎麦」は一気に練られ、延され、切られていく。35年間、無心で蕎麦と向き合ってきた「江戸蕎麦 ほそ川」主人、細川貴志さん(71)の動きは、終始リズミカルで、微塵の無駄もない。

 朝7時半、細川さんの一日が始まる。まず、とりかかるのは、出汁の準備だ。利尻昆布と大分のどんこを水に漬け、冷蔵庫で1〜2日間寝かせた大鍋をガス台へと移す。これを沸騰させないよう慎重に火加減を調節しながら、1時間ほど温める。そして、仕上げに大量の鰹節を鍋いっぱいに入れる。何千回も繰り返してきた所作だが、毎日味は微妙に異なると細川さんは言う。

「鰹節の質は絶対に譲れないし、火加減や分量もすごく大事。でも、毎日同じように正確につくっても微妙に出汁の味は違うんです。自分の舌で確かめて、このレベルは絶対に確保しないと、とやっているんだけどね。だから、旨い出汁ができたときは、ついついお猪口で5、6杯飲んじゃうんです(笑い)」

 こうして丹精込めてつくられた出汁は、つゆのベースとなる。馥郁(ふくいく)たる香り、甘さを抑えたバランスのいい旨味が蕎麦を引き立てる。「ほそ川」のつゆは、とても残す気にならない。

 出汁と並行して、その日の蕎麦の準備が進む。細川さんは玄蕎麦を仕入れ、店内で脱穀し、石臼で製粉する。

「旨い蕎麦にするためには国産のいい原料を使うことは必須。あとは、切れる石臼で挽くこと。石臼が挽けないと十割蕎麦はつながらない」

 石臼の切れ味が落ちたと思ったら、すぐにメンテナンスに出す。それぐらい石臼には神経を尖らしている。

 蕎麦粉を水回しで一気にまとめた細川さんは、のし棒を手に鬼気迫る勢いで延し、たたみ、正確に切っていく。この間わずか15分足らず。

 ひととおりの準備を終えて、ほっと一息つくのが午前10時すぎ。ようやく弟子と2人で朝食にありつく。朝食前の仕込みの2時間半こそが「ほそ川」の生命線なのだ。

 16歳で料理の道に入った細川さんは、鮨屋、割烹などで働いたあと、埼玉県で蕎麦屋をオープン、2003年、築地市場に近い場所を求めて現在地の東京・両国へと移ってきた。

 細川さんは、蕎麦だけでなく、料理に対しても力を注ぐ。いまは天ぷら中心の構成だが、「焼きみそ」などのつまみもすべて旨い。自身もまた料理に目がなく、暇を見つけては、和食、フレンチ、イタリアンと食べ歩いてきた。

 一方、休みとなれば地方の産地へも積極的に出て行く。

「いい蕎麦があると聞けば、農家を訪ねて直接買ってくる。国産の蕎麦の中でも、上位10%から20%の原料を探すという気持ちで30余年歩き回っているんです。いまも仕入れている徳島県祖谷(いや)の蕎麦農家には、最初、5年通いましたからね。野菜にしてもそうです。食材探しと外食は、刺激的だし、自分をやる気にさせますよね」

 細川さんの蕎麦への情熱は、70歳を超えたいまもまったく衰えていない。

 もっとも、悩みもある。

「昔やっていたごぼうのかき揚げ蕎麦や太打ちの田舎蕎麦、デザートなんかを復活させたいんです。でも、いまは、弟子が一人なので、とても手がまわらない。まだまだやり尽くしてないし、やりたいことはたくさんあるんです」

●江戸蕎麦 ほそ川 【東京・両国】
東京都墨田区亀沢1-6-5
営業時間:11時45分〜14時(L.O.)、17時半〜19時半(L.O.)
定休日:月、第1・3火曜

■撮影/太田真三、取材・文/一志治夫

※週刊ポスト2020年3月13日号