【書評】『偽装死で別の人生を生きる』/エリザベス・グリーンウッド著/赤根洋子訳/文藝春秋/本体1800円+税

【評者】鈴木洋史(ノンフィクションライター)

 リーマンショックが起こった2008年、27歳だった著者(アメリカの“ラストベルト”出身の白人女性)は、多額の学生ローンを抱えて絶望的になっていた。そのとき、友人が口にした「死亡偽装」というアイデアに取り憑かれる。自分が死んだことにして別の人間になりすまし、借金から逃れられないか? 著者はその後数年間にわたり、国民総背番号制が徹底され、街中のカメラで監視され、ネット上に足跡が残ってしまうこの21世紀のデジタル管理時代に、果たして死亡偽装は可能なのか、可能だとしたらどのような方法によってなのかを徹底的に調べる。

 主な取材対象は失踪希望者を手助けする有名な「失踪請負人」、生命保険会社から依頼され、死亡保険金の請求のうち死亡偽装が疑われるケースについて調査する敏腕「偽装摘発請負人」、アメリカとイギリスの有名な死亡偽装事件の当事者(結局は失敗して逮捕された者たち)、親に死亡偽装され、心の傷を負った子供たちなど。それにとどまらず、著者はなんと、死亡偽装の主要な舞台となっているフィリピンに飛び、自分の死亡証明書の作成を依頼し、入手に成功してしまうのだ。

 著者の調査、取材によって次々と興味深い事実が明らかになる。

 死亡偽装の動機は金が圧倒的に多く、次いで暴力、稀に愛。借金から逃れたい、パートナーの暴力から逃れたい、別のパートナーと人生を歩みたい、というわけだ。死亡偽装を試みるのは大半が男性だ(男は夢想し、女は現実を受け入れる)。偽装の99%は遺体が見つからないこともあり得る水難事故。アメリカでは死亡偽装を試みて逮捕される人が年間20人以上いる(もちろん成功者の数は不明だ)。あの「9・11」のとき、後に確定した犠牲者の数は2801人だったが、事件直後には6千件以上の捜索願が出され、内44件は生きている人や、そもそも存在しない人物のものだった。

 エルビス・プレスリーやダイアナ妃など著名人の一部には都市伝説的な死亡偽装説があり、その最大のものはマイケル・ジャクソン。いまだにマイケルの死の真相を探る「マイケリング」を真剣に行い、生きていることを信じる「ビリーバー」という少なからぬ人たちがいる。死亡偽装の舞台となるのは、近年ではフィリピン、メキシコ、インド、中国が多い……。

 ユダヤの経典にも書かれていることが示すように死亡偽装は物語の原型のひとつで、人間が普遍的に抱いてきた空想だという。そして、〈この白日夢は、現代人の生活が極端に可視化されていることへの反動〉だ、と著者は分析する。

 だが、著者自身が、自分の死亡証明書を手に入れたときに沸き起こった思いが興味深い。危うく車に轢かれそうになって息を呑むような、死に直面するショックを受けた。そして、〈自分が思っていたほど死亡偽装はロマンチックなものではない〉ことを思い知らされ、人生の退屈さに感謝し、これまで自分を苦しめてきたものを受け入れて生きていくことを決意した、というのだ。

 死亡偽装を貫くためには、書類上で自分を殺すだけでなく、それまで生きてきた記憶や他者との間に築いた関係性の全てを封印しなければならない。そのことの深い孤独に足がすくむ思いだったのではないか。

 著者の取材は粘り強く、洞察力も深く、人間存在の根本にまで触れている。日本ではなかなか書かれ得ない傑作ノンフィクションだ。

※SAPIO2017年8月号